新年明けましても読んじゃいやん

だから読むなと言っておろうに。


さっき録画しておいた紅白をチラ見。そう、福山雅治が気になってたので。残念ながら橘の子たちは出演果たさず。さすがに京都から横アリはきつかった? というか労働基準法の方の問題? なら前回のアレは…? なんにせよ「残念」かと思いきや、代わりにヨコハマの社会人チームの「チューバ肩抱え」を目撃できてワタシゃ満足じゃ。12kg だよ 12kg。どんだけ鍛えてるんだ。


さっき録画して塩漬けし過ぎていた10月くらいの関ジャムの吹奏楽部特集をガン観。今年全国金賞の東海大附属高輪台高校の出演。ダメだ、一挙一投足にいちいち涙が溢れて困る。いや、キミたち、キラキラしてるぞ。いいよ羨ましい、あんな高校時代を送りたかったものである。


シュタゲのあまり掘り下げた話はしないでおこうかと思ったんだけれど、どうしても言いたいこともあってだな。

まずは「ルカ子」の話である。

まず大前提として、彼が男だろうが女だろうが、ワタシにとっては「最も苦手とするタイプ」であるということ。身のまわりにも何人かああいうタイプの女子、男子がいたが、個人的に最も被害を被ることが多かった「迷惑な人々」であった。なんつーの、まずはイライラすんのよ、はっきり自己主張しないことに。そのくせ実は我が強くて、思わぬタイミングで思わぬ形で「チームの足を引っ張る」のね。つまりは逆ムードメーカー、周りの人間を一気に萎えさせてくれる。ルカ子をみているとそういった彼らを思い出す。(ピンと来ない人は「どうせわたしなんて」が口癖の人間を一人でも思い出すがいい。ルカ子の本質はそれに見える、ワタシには。)

そしてもう一つ大前提として、「岡部が、そうしたルカ子にワタシと似た目線を向けつつ、許容していること」におそれいっているということ。岡部の件について書きたいことはヤマほどあるが、つまりは「岡部がモテるのは当たり前」なのだ、そう、「ワタシと全然違う」わけよ、彼、ほんとに実在したら、確かに同性にもモテると思うよ、ほんと。

許容、というとちょっと違うのかな。なんであれ行動が全然違うのよ。ワタシはたぶんルカ子に激怒したり避けたりする。けれども岡部はルカ子を、まぁ「教育」とでもいうのかな、あるいは「こっちの世界にちょっとだけ引き寄せる」とでも言うのかな。「お前の見ている世界に留まっていずにこっちへ来い」と手を引っ張るわけだ、「無自覚に」。いやぁでけんわ、そんなん。

このワタシのルカ子に対するストレスはワタシだけのものなのかというのは、たぶん違って、原作者(志倉千代丸/MAGES.)が「描きあぐねている」感じがする。ルカ子描写が頭抜けて薄いんじゃないのかと。というか原作者自身が苦手なタイプなんじゃないのかと。つまり、特に TV アニメ版だけ見た人にはルカ子は「まゆりの命と岡部への想いを同列に出来るわがままな子」にすら見えるし、無印原作ゲームの本線だけプレイしてれば、より輪をかけて「まゆりの命よりも期限までの岡部との恋人関係の方が大事」な、頭の弱い子にすら見える。

そして「ルカ子、嫌いっ!」の決定打となりうるのはそう、その「ルカ子エンド」の存在だ。このルート、ゼロ、スピンオフ作品も含め全エンディングの中で、最も救いがない。ゼロの「レスキネンエンド」が唯一の「本物のバッドエンド」なのだが、このルカ子エンドはレスキネンエンドよりも遥かに救いがない。すなわち、一見バッドエンドであったり、救いがないように見えるエンドでも、ほかのものは「確定していない未来」がある。無印ならば「まゆりの死は確定していない未来」に続き、ひょっとしたら、と思わせる何かが必ずある。けれどもこのルカ子エンドには「まゆりの死が確定し、相変わらずラウンダーに狙われ続ける未来が確定している」。なのに、そしてこれも唯一「ルカ子と岡部が結ばれて子を為す」という「スィーツ(笑)」なインターカットで幕を下ろす。そう、一見あたかも「最もハッピーエンド」な演出である。

けれども。つまりはこの決断は「二人で一生傷をなめあって生きていきましょう」ということであって、そう考えただけでも存分に救いがない話である。このルートを辿った先の牧瀬紅莉栖の未来にも切ないものしか想像出来ない。まゆりはそして「確定した過去」として死んでいるわけである。

おそらく、なのだが、原作者自身も不満だったんじゃないのか。そう思う証拠が「線形拘束のフェノグラム」の存在である。これのルカ子ルートはつまりは、「諦めた岡部」をルカ子が最終的に「救う」話であり、無論ルカ子自身も救われる話だ。けれどもルカ子の「勘違いっぷり」はこの「線形拘束のフェノグラム」前半も延々続き、紅莉栖にやんわりと否定されたりもして、かなり胸が苦しいトーンが続く。そして結局のところこれは「気付く」話だ。ルカ子は「線形拘束のフェノグラム」を経てはじめて「共感出来うる子」になる。(「ルカ子と岡部が結ばれて子を為す」のイメージ映像がこの作品ではっきり名指しで否定されているのも非常に面白い。)

何が言いたかったのか? そう、「ルカ子評価が一番難しいし、最も理解までに時間がかかる」ということ。少なくとも「線形拘束のフェノグラム」なしにはルカ子への見方は確立出来ない。そしてそうまでしてようやく好きになっていれば、TVアニメ版ゼロでの「2036年のかっこよ過ぎなルカ子」に心の底から感動出来、その死に涙を流せる。

たぶんねぇ、「ルカ子にだけは共感できない」人、ワタシだけじゃなく結構多いんじゃないかと思う。もしそうなら「線形拘束のフェノグラム」をトライしてみるがいいさ。


シュタゲ話でどうしても言いたいこと、まだ続く。

アニメ版での改変で、まぁたぶんほとんど唯一かなぁ、「残念」に感じることがあって。それは、紅莉栖がより理想的に過ぎるふうになってる点。

たとえばいくつか岡部と紅莉栖の役割が入れ替わっちゃってるところがあって、一番大きいのは、タイムリープマシンの着想が、原作では実は岡部発信なのに、TV アニメ版では紅莉栖が自家発電で気付いたことになってしまってる。こうしたことは何箇所かある。これによって何が生じるかというと、「なんでそうまで紅莉栖は岡部のことが「大」好きになったの?」が希釈されてしまうわけだわ。当然なぜに岡部がモテるのかは、TV アニメでも存分に伝わるよ、伝わるけれども、それでも原作では「天才牧瀬紅莉栖がみても驚くべき着想をする人物」として岡部は描かれていて、すなわちそこも「大」好き要因になってたのね。というのはこれも「線形拘束のフェノグラム」の紅莉栖ルートではっきり語られている。

そしてね、実際一番もったいないと思ったのはね。そう、原作ゲームの牧瀬紅莉栖は、もっと遥かにずっとずっと「ポンコツ」だし、聞き分けが悪くて人間的で、もっとずっと遥かに心を病むし、もっとずっと苦しむ。ここが一番はっきり現れているのがまさしく「因果律のメルト」(紅莉栖エンド)で、ここでの「死にたくない」紅莉栖は TV アニメではほとんど省略されてしまっている。ゼロでアルファ世界線へ変動してしまった際に出会う「生きている紅莉栖」の「忘れるなといったり忘れろといったり」のくだりも TV アニメでは「ただただ聞き分けが良くて出来すぎな紅莉栖」として描かれて終わりである。(ついでに言えば、登場初期の彼女の憎たらしさ・生意気さも、アニメ版ではかなり薄い。)

「ポンコツ」と言ったけれども、「大人/子供」の方がわかりやすいか。アニメの紅莉栖は、原作ゲームにあった「子供っぽさ」「少女っぽさ」が希釈されて、非常に大人成分がより強調されちゃってるのだよね。

じゃぁ TV アニメの方がダメなのか、…てことでもないんだよねぇ。そもそも花田さんらの脚本は相変わらず素晴らしいし演出も出来過ぎで、原作を知らなきゃ不満なんか持ちようがない。TV アニメ版の方にしかない「それで心が動かないのだとしたら」のくだりも、何度観返しても涙が止まらなくなる。

なんというか贅沢な悩みだ、と思う。


シュタゲ話でどうしても言いたいこと。

「理解が難しいキャラ」のもう一人、比屋定真帆について。

「難しい」というのは「共感」の意味ではない。むしろキャラに対するシンクロ率は、ワタシにとっては真帆がダントツで、最も理解出来る。そしてあの芯の強さには憧れもする。なんかさ、「今岡部に言いたいこと」をまさにそのままの言葉で向ける人、なんだよね。紅莉栖とは岡部の救い方が随分と違っている。紅莉栖は結局のところ岡部の「心」を救うことには常に(失敗はしてなくても)あまり成功していなくて、いつでも本当の意味でそれを担うのは、まゆり、フェイリス、ダル、鈴羽であったわけだ。真帆はどちらかといえばまゆり達に近い、心に踏み込んで救っていく。紅莉栖はやはり岡部に似過ぎていて、一緒に苦しむことに終始してしまうのであろう、なんかわかるなぁその感じ。真帆はなんというかひょっとしたら「過去の自分を見ているような岡部」、という見方、立ち位置こそが「真帆らしさ」なのではないのかなと思う。

真帆に関して「わからない」のが、そう、岡部に対する気持ち、の部分である。ここは原作ゲームも TV アニメも非常に曖昧に描かれていて、確かに顔を赤らめる場面はいくつも描写はされるものの、そりゃ周りがやいの言えば誰だって恥ずかしくもなろう、所詮その延長なのかな、という程度にも見える。さらにいえば、唯一「好き」という言葉を使う原作ゲームでのベッドでのシーンはこれは、「紅莉栖に言わせた」という描写(まねをして)になっていて、これは果たして真帆自身の気持ちはどの程度現れているのだろうか、と滅茶苦茶悩ましい。

原作ゲームでの描写に関してはさらに「ワタシのことはマホと呼びなさい、あなたのことは倫太郎と呼ぶわ」だって、むしろこれは「アメリカ生まれアメリカ育ち」な描写と解釈した方が普通なら素直で、恋愛感情に結びつけるのはちょっと無理がある。

唯一「2036年時点での真帆と岡部」についてだけは、これはさすがに想いがないと考えるのは無理があるだろう。25年の間に積み重ねてきたものが間違いなくあるだろうし、なにせ「あの」岡部だ。なんなのさ、好きにならない方が難しいんじゃない? けど 2011 年の真帆は違う。紅莉栖が岡部を好きになるほどのエピソードは真帆には与えられていない。もしそれでも気があるんだとしたら「一目惚れ」に近いタイミングで想いを抱いたことになり、ちょっとファンタジー過ぎる気がする。まぁ…ないでもないかなぁ、とも一方では思うけれど。

シュタゲってさぁ、結局のところは「岡部のことが好きな紅莉栖が愛おしく苦しい」「岡部のことが好きなまゆりが愛おしく苦しい」みたいなことなのかなぁと思うんだけれど、そしてその目を通して岡部が大好きになる構造なのかなぁと思うのだけれど、ほぼ真帆だけがこの点に関して「はっきりしない」のがね、まぁ底が知れなくて面白いなぁ、なんて思うわけな。(実際物語世界の役割として、なので「紅莉栖のことが好きな真帆が愛おしくて苦しい」てことなのはまぁ理解は出来てるけれど。けどね、「岡部に気があるようにも見える」じゃないか、実際。)


シュタゲ話でどうしても言いたいこと。本日としては最後にしとこう、キリがない。

「嫌いなキャラがいない」という話。ルカ子の話と矛盾するようにみえて、結構そうでもなくて。ルカ子だってほとんど全て「自分と違う」てだけのことだったりはするし。

で、要するに Mr.ブラウンにだって共感するし好きだし、てことなわけだが、言いたいことはもっと細かくて。

まずは「あのレスキネンですらも」、確かに救いようがない悪党「だった」わけだけれど、それが発覚するまでのレスキネンはどう考えたってチャーミングで魅力的で、岡部たちが騙され続けたことがちゃんと納得出来るようになってる。

それよりもさ、「モブ中のモブ」であることろのフブキ、カエデがさぁ、なんとも好きなんだぁ、ワタシは。

フブキについては、特に原作ゲームにおいて明確な役割を与えられていて、要するに岡部よりは弱いけれども能力者である、ってわけだね。なのでフブキ視点というのが非常に「苦しい」わけだ。彼女の目から見る岡部とまゆりというのは、とにかく見ていて苦しい対象であって、ゲームにおいてのフブキ視点のシーンでは明確にそれが語られる。のでまぁフブキに関してはさ、「共感」めいたものを抱くのはこれは「アリ」でしょ? (というか個人的なことではやはりボーイッシュな人は現実世界も含め好みだということがあるんで、こればっかりはしょうがない。)

けどカエデは違う。彼女には重要な役割はなく、いや、あるんだけどさ、まぁないことになってる。実際は「そのフブキを支える人」としての役割があって、スピンオフまでみれば「ひょっとしてカエデはフブキに恋愛感情を?」という描写さえある。実際ゲームでは、桐生萌郁が真帆を救うのに一役買っていたりと常に甘噛みはしてる。だとしてもやはりカエデは「ザ・キング・オブ・モブ」。なのにね、なんか登場するとやたらに印象に残るのだよね、彼女。ちょっとミステリアスな感じもありつつ、やっぱり「優しさ」オーラが出まくってるところ、なのかなぁ。

結局シュタゲの魅力って、こうした端役も軽視しない細かな描写なんだろうなぁ。とても目線が優しいのよね。