やっぱり今日も読んじゃダメん

シュタゲ話はいつも通り含まれる。


なんかここ数日体調よくなくてな。というか「ずっと眠い」。困るなぁ。


シュタゲ話で、毎度「あぁ書き忘れたぁ」になってたヤツ。

「こうすりゃいいのに」と気付いてしまって醒めてしまう娯楽作品てのは無論多いわけだけれど、シュタゲにもこれはないではなくて。

ワタシが一周目で気付いたくらいだから、たぶん多くの視聴者(プレイヤー)も結構気付いたんじゃないかと思うんだけれど、「なんで一緒にタイムリープしないの?」についての説明がされてないのが、結構気になる。

「説明しようとすれば」出来るんだよねこれ。「リーディングシュタイナー能力のある岡部だからこそ」てことでしょ、だから「解釈」そのものは出来る。けど物語内でこれが語られることはついになかった。

おそらく紅莉栖も一緒にタイムリープしてれば「もっとスムーズに」出来た部分、結構多いはず。毎度岡部はタイムリープし直すたびに「説明し直し」ていたのだから、その説明時間を節約出来たんではないのかと。

似た話で、タイムリープは「知識だけは持っていける」のだから、「一度完成させてから戻って作り直す」ことで、タイムリープマシンの完成を少しずつ早める、なんてことは、果たして出来ないんだろうか、てのも。これは「脳疲労」を伴うだろうから、現実にはあまり時短にならんのかもしらんけれど、本質的に上の「説明時間」と同じく「議論など」をしなおさなくていいことにはなりそうなので、案外一時間単位の短縮は出来たりしないだろうかと。たぶん「必要部品の調達」の効率も上がるはずだろうし。

ということなのだけれども、シュタゲの場合これ、「本当にそれを描くとするなら」結構本質的に困ったことが起こるのが面白い。すなわち「主観の継続」の問題。岡部はタイムリープをして過去改変をした場合に、「過去改変してるオレ」と改変後の主観が継続するわけだが、リーディングシュタイナー能力がないものがこれをした場合に「その者の主観にとっては何が起こるのか」、てこと。解釈としてはおそらく「岡部と同じく主観が継続する」のだと思う(スピンオフ作品での岡部以外によるタイムリープで実際そう描かれてる)が、なんにせよこのことの検討が避けて通れないのよね。ただでさえ難しい世界観が、さらに難しくなる、ってこと。

つまりはシュタゲのこれの場合の「醒める(萎える)」は、「そこまで踏み込めばもっと面白いかもしれん」てことなんだろうなぁ。


「書き忘れてたぁ」なのがもう一つシュタゲにあって。

紅莉栖は「人体実験をするような SERN に私が協力するとは思えない」という言い方をするのだけれど、この言い方に、ワタシは初見から引っかかってて。

「言葉が持つイメージ」に関係する話なんだけどさ、そういや前に「痴呆症」の話したっけな、それと同じ話。つまり「人体実験=悪」というどうしても先行してしまうイメージがあるわけなんだけれど、いやいやちょっと待てや、と。「臨床試験」は人体実験なんだぞ? てハナシ。

つまり紅莉栖は本来なら「人体以外で成功していない実験を人体に適用する」ことに対する嫌悪を示すべきであって、人体実験そのものを否定するのはちげーぞ、と、そう思ってしまったわけよ。だって「タイムトラベル」がゴールなんだったらさ、最終的には「人体を使った試験」は不可欠なんだから。紅莉栖も言葉のイメージに引きずられちゃったのかなぁ。(「認知症」というとマイルドになる、のと同じく、「ゼリーマン化の臨床実験」なら許す、のか、とツッコミ入れたくなるて話。)

もう一つ付け加えるとさ、「人体への適用だから悪」てのも本来は「人間の身勝手な論理」なわけでしょ。「マウス」には「人権がないからオーケー」というのはこれは「倫理」ではない。いわゆる「必要悪」。そこを勘違いしてはならん、と思うんだけどな、ワタシは。つまり「人体」に適用するから悪だ、ということなら、考え方が幼稚過ぎる、てことな。


そもそも「どれを選んで観るか」からの直接の結果だけれど、アニメ話をする際に「続編ものや再放送」の話はあんまししてないわけだ。再放送ものでこれまでしたことがあるのは「ウマ娘」くらい。ただ「書かない」のと「観てない」のは話が違う。

この「再放送もの」、「モブサイコ100」は観てた。今リアルタイムで「モブサイコ100 II」をやってるけど、おそらくこの II に向けての再放送開始だったんだろう。

非常に「少年漫画的」でさ。ふざけたタッチの絵柄とふざけた世界観、そしてふざけた霊幻新隆、なんだけれど、描こうとしていることは実に真面目かつ「かっこいい」。見かけに騙されちゃいかん好例かなと思う。つーかアクションシーンは「あんななのに」滅茶苦茶かっこいい。

で、この「モブサイコ100」と比較しながら観るハメになったのが、「スーパーチューナー/異能機関」(声優による実写ドラマ)。どちらも「言いたいこと」は近いのかなぁと思う。「持つものによる倫理」みたいなことだよね。ただ残念ながら「比較」するからこそ面白いと言えないこともなかったけれど、「スーパーチューナー/異能機関」はすまん、「つまらなかった」。なんだろうね、分析的なことは考えてないけどとにかく「別に観なくても良かった」とは思った。

「声優による顔出し芝居」についてなんだけれど、ワタシは当然ながら「出来るならやればいいし嫌いじゃない」のだけれど、ただね、「声優による顔出し芝居」そのこと自体を「ウリ」にする商品は好かん。これは歌でも同じ。才能ある人はどんどんやんなはれ。けど「声優が歌ってます!!」。で? てこと。

実際「芝居の本質」はたぶんそう大差ないんだろうと思うんだよね。無論「顔が見えないことをいいことに」が可能な職業なので、声優固有の技術があるのは確かだろうけれど、「演じる」という本質部分が大差ないなら、才能ある声優が役者も出来るのはきっと当然のことなんだろうと思う。それにおそらくその手の養成所の類も、きっと「声」だけトレーニングさせるわけではないだろうしね。

この話でついでに思い出したんだけれど、なんかある意味当然の流れのような気もするんだけれど、「とても人気と実力があるとみなされている声優」って、やっぱり子役出身だったりもともと役者だったりするんだよね。黒沢ともよはもちろんそうなんだけれど、最近知ったのは花澤香菜。あと中田譲治ももともとは役者。なんつーかこういうのってやっぱさ、「出来る人は出来る」てことなんだろうなぁ。


アニメじゃなくてドラマの話。今は「3年A組 ―今から皆さんは、人質です」だけ観てる。「みかづき」は観終わった。

「3年A組」はね、やっぱキャストがいいよ。考えてみれば、ワタシにとっては菅田将暉でこれまでハズレがない。彼だけ選んで観てるつもりなんてないのに、結果的に彼のが大抵生き残る。いい作品に「選ばれてる」てことか。

物語としては今のところ「一話時点で想像したこと」の通り進んでる。ので、展開でビックリすることは今のところ一つもないのだけれど、そのことがマイナスかといえばそういうことじゃなくて、ちゃんと楽しめてる。この物語が伝えようとすることがワタシが考えていることなのであれば、きっと結末は「ああなる」のだろうけれど、それがわかるからといって楽しみじゃないなんてことではなく、また、このワタシの想像を裏切って欲しい気持ちもある。「告白」的ではあるけどちゃんとそうじゃないのもいい。

というか、非常に「日テレ的じゃない」ドラマな気がしてる。なんかこれまでだったら TBS や NHK が好んでやってたような内容。これの今のところ目に出来てるテーマてのは、当然ここ5年くらいずっと描かれ続けてるもの。「悪意にまみれたナイフで汚れなき弱者を傷つけないように」という言葉に象徴されているソレ。今まさに誰しもが実感しているソレ。ので、「痛い」わけね、観てて。けどワタシらの世代は若者時代が「そうでない時代」だったからさ、未成年時点で「ソレ」を経験している若い子の気持ちにまで寄り添えるのかどうかてのは、やっぱりわからない。わかってやりたいとは思うけれどもなぁ。


唐突だけど「悪役による演説」に共感することってある?

ワタシは「ダークサイド」こほー、な人間なので、9割の確率で共感する…、なんてことはないけれど、ただ、悪役による説教やら演説って、よく出来た作品であればあるほど「そうかもしれん」と思うことが多い。おそらくそう公に発言してしまうと実害あるから、口に出しては言わないとは思うけれど、これってきっと多くの人がそうなんだろうと思ってる。あるいは無意識レベルでの共感はしてたりするんじゃないのかな。

具体的なやつで昔から良く使われてるのだと、「人間は数を増やしすぎた」ことを理由に戦争を肯定するもの。無論「悪」として描かれるので、その論理は作品内で否定されるのだけれど、じゃぁ「人間は数を増やしすぎたので戦争は肯定される」論に、1bit とて共感出来ていないのか? 多くの作品が描きたい本質は「あなた自身で考えなさい」であることが多いので、実際作品の作り手の「本心」が隠されていることも多いんだと思ってる。つまり作者自身の言葉であることがある、てこと。

ワタシは「人間が戦争で勝手に滅びるのは構わんが、迷惑をこうむる人間以外のことを考えろ」という考え方。「地球」のために戦争なんかするべきじゃないし、「植物」のために戦争なんかすべきじゃない。けど愚かな人類が勝手に自滅するなら、受け容れるしかない、連帯責任でしょ。これ、「悪」の論理と大差ないと思わない? 実際こういう悪役も、探せばきっとそういう作品、あるんじゃないかしら。

つまりは「正義ってなんだ」てことなんだけれど、「3年A組 ―今から皆さんは、人質です」もシュタゲも、このことについて意識的な作品だと思ってる。特に前者だけど、なので、裏を返すと「危険」でもある作品なのだよね。8話までで描かれた範囲では、柊一颯の「許される悪」「正義ではないこと」の是非を問うものということになるわけだけれど、解釈を誤ればこれは「本来許されないことを肯定する」話だ、すなわち、8話で言うなら「目には目を」を正義とするものだ。無論そんなことを言いたい作品なんかじゃない。むしろ「正義というあやふやなもの」こそが描きたいことであろう。

シュタゲの場合、無印本編であれば桐生萌郁と天王寺裕吾の「正義」の是非の問題が、ゼロのゲーム版だと、レスキネンとレイエスの「正義」の問題が描かれるが、特にルートによってはレスキネンの「演説」はもっとも典型的悪役像に近い。つまり「共感するなんて言おうものなら、世間から冷たい目で見られる」類のもの。そしてそれこそが、今話題にしてるタイプのもの。レスキネンは「核兵器による抑止力」とタイムマシン管理を同じものだとする。まさにこれの話。

この論理に「共感する」ということはもちろんワタシもないのだけれど、ただね、「そんな悪いこと考えるなんて、おぬしも悪よのぉ」てのとはかなりかけ離れたところに感情がある。何が言いたいのかというと、これさ、「現実にそう考える人々がちゃんと実在している」ことに対する、いわば恐怖心みたいなものだよ。当然でしょう、「核兵器による抑止力」という考え方自体が、「実在し、信じられている」のだから。「身の回りの太郎さん花子さんがそう言ってないしワタシもそう思わない」てな半径10mの世界に思考を閉じ込めずに、「世界を見れば」わかるだろう、現代は「残念ながら核兵器によって守られていると信じられている」のだから。だから、「レスキネンは正しい」のだ、ある意味で。

シュタゲだともう一つ、「紅莉栖と SERN の関係」がある。本編だとここは結局何も描かれなかったが、スピンオフでは、まったく異なる二つの未来が描かれた。

一つは鈴羽目線で描かれた、「世界を敵にしてでもまゆりを救おうとしたのだ」という(鈴羽による)解釈の紅莉栖。紅莉栖が好きで好きでたまらないなら、この解釈は「安心」出来るものかもしれない。

けれども、シュタゲはこういうところが非常に容赦なくて、「SERN に共感して協力する紅莉栖」も描かれてしまった。こちらは紅莉栖自身による発言なので、間違いがない。すなわち鈴羽による解釈のような不可避でやむをえない協力ではなく、自発的に積極的に SERN に協力している紅莉栖であり、ファンには恨まれるかもしれない描かれ方だ。こちらの紅莉栖が、まさに「正義」について、レスキネンと同質の演説をかます。紅莉栖は無論「悪役としては描かれない」けれど、本質はまさに悪役のソレだ。そして残念だけれど、現実世界でよく見る構図だ。

どっちの作品もそうなんだけれどもさ、「3年A組」の方であれば、「Let’s think」という短いこの言葉を軽視せずに観てほしいなと思う。世界は二元論では出来てない。そのことを、立ち止まって考えなければならない、そういうことだろう。

08:50追記:
このタイプの駄文に追記入れるのは初めてかもしれん。2つ。

「SERN に共感して協力する紅莉栖」は、久しぶりに見直したら、違ってた。父親を人質に取られ、妥協し、つまりは無理に自分を正当化している紅莉栖、というのが正解。

もう一つは「3年A組」の世間的評価の話。ちょっと検索するとネガティブな意見が目立ってた。これにはワタシは本質的な部分で共感出来てないんだけれど、気が向けば何か書くかも。今のところ言えるのは、この作品が「わかりやすい反感を買いやすい」ものであるってこと。見かけがわかりやすいものほどこういうことは起こる。まぁこれについては最終回まで観ないとなんともいえんとこもあって、最終回まで観たらワタシの評価も正反対なものになってる可能性はまだ残ってる。実際ネガティブ評価が言わんとするところもわからんでもないとこもあるし。


なんかね、もっと色々書くことがあった気がしてるんだけれど、…まぶたが重いのさぁ。だから今日はこれでやめとく。