本日も、読んではならない

最近連投だが、いつものようにすぐに息切れするような気はする。書く気があるうちに…。今日はシュタゲの話しかしない。

たぶんシュタゲの、無印ゲーム版だったと思うんだけれど、「オタク用語」とか「ネットスラング」の類の、2つ気になったのがあって。

一つは「中の人などいない!」、もう一つが「馬鹿なの? 死ぬの?」。前者がねぇ、誰が言ってたんだっけか。たぶん言うとしたらダルなはずなんだけど。後者は紅莉栖が良く口走ってる。

気になった、というのは、知らなかったからではなくて逆。ワタシはこうしたスラングには詳しい方でも疎い方でもない、ちょうど絶妙に普通(の下)くらいなので、さすがにここまでメジャーなものを「聞いたことすらない」なんてことにはならない。

なんでこの2つだけ気になったかてのは、「ともに初めて聞いた記憶がとてつもなく古いような気がする」からだったのな。

「中の人などいない!」の方なんか、「うーん、確実に学生時代にまで遡る気がするぞ、しかも漫画だったと思う、とするならジャンプかスピリッツ以外考えらんな、とすればうーん、まさるさんとかか?」と思ってた。記憶はそう外していなかったらしく、ただし「下の人などいない!」(吉田戦車の「伝染るんです。」)。

にしても最近アニメづいてるので声優を「中の人」と呼ぶことに何ら抵抗はないんだけれど、うーん、もともと「ソフトウェアやガジェット等、何らかの製品の開発者や、サービスの提供者等を総称するインターネットスラングである。」てことなの? ほんまかいな。てことはなにか、ワタシも中の人なんかいな。そんな自覚ないぞ。

「馬鹿なの? 死ぬの?」は、エヴァあたりかしら、という気がしてて。エヴァはワタシは前にどっかで書いた通り観てないんだけれど、有名セリフの類はリアルタイム当時やはり流行ってたので、そこで聞いたのかなぁ、だとしたらこれも学生時代まで遡る? と。

けれどもこちらは随分記憶と違っているようで、2つの説(「山田ボイス」「ゼロの使い魔」)のどちらも、2004年より前には遡らないらしい。これだと富山に住んでた頃だな。エヴァ同様に「ゼロの使い魔」もワタシは通ってない道だが、やはり流行りの言葉として聞いていたのだろう。にしてもどこで聞いたんだ? テレビで誰かが使ってたとかそんなか? あぁ…、心当たりがあるとしたら、「よゐこ」かな。彼らはかなりのアニメ通、ゲーム通で、こういうことは良く口走ってたような気がする。


ちょっと近い話になるんだけど、シュタゲ原作者の、なんつーの、「同世代感」がちょっと半端ねーつーか。

確かにこの作品で描くのは「若者」の話。岡部は無印時点で18歳、紅莉栖が、β世界線で殺された時点で17歳、主要キャラのうち年齢が高い層でも真帆がゼロ時点で22歳、カエデと阿万音由季、「現代での」椎名かがりの3人が少しだけ年齢が高いがそれでも 21、22歳。

ただねぇ、「レトロ好き」という設定があったとしたってさ、X68000 だ PC6001 だ MSX だと平気でワタシの子供時分の子らが登場する。つかね、岡部は別にダルほどのマニアじゃないのに、「レトロ PC ていうと 98 とか 6001 とかか?」などと平然と答えるんだわ、こんなん、同時代に生きてなきゃホイホイは出てこんて。

てな話もあるんだけれどね、それよりも。「X68000」の言い方よ。ワタシはこれを「ペケロッパ」なんて呼んだことは一度もない。当時は「エックスロクマンハッセン」と素直に呼んでたし、大人になってこれの話題を同世代の人間と話すときも「エックスロクハチケー(X68K)」と呼んでた。ほかの場所でも言ってるけどさ、今と違って当時は「同趣味人とのコミュニケーション手段」ってそんなに豊富じゃなかったから、呼び名の共有も別に全国津々浦々のレベルまで浸透してるなんてことはなかったんだよね。なのでこの「ぺけろっぱ」という言い方、どこ文化発信の言い方なのであろうか? 2ch とかかなぁ? かもね。

同世代感を感じるのは「2ch再現」からの影響である可能性が高いとは思うのだけれど、ただね、ちょっとした一言が、なんかいわゆる「アラフォー・アラフィフ」臭い感じがしてなぁ。まぁガンダムかジブリ発祥のネタは、もはやワタシら世代の特権てわけでもないのかもしらんけどさ、けど tvk の菊谷宏樹Dが作る番組みてるとわかるでしょ、この世代特有の空気。シュタゲもこれに近い。


書こうと思ってて忘れてたこと。アニメ版のキャラクターデザインの話。

まずは「褒める」とこから。ワタシはシュタゲで全キャラの「涙袋」が描かれてることに気付いてから、本気で好きになった。これがアニメーション製作の White Fox の個性なのか、それともシュタゲの個性なのかはわからない。けれどとにかく無印24話のラストシーンの紅莉栖のまばたきのシーンは、それがなくてさえ「白馬の王子様に出会った」感がでまくってるのに、「涙袋」がそれに拍車をかけてとても美しい。

京都アニメーションも凄いが、White Fox も素晴らしい。この2つは確かに別の個性でありそれぞれの魅力だ。

逆にネガティブな話もついでに書こうと思うが、実はこれは「シュタゲに対する」てわけでもなかったりする。アニメ全般に対してのもの、てことになると思う。

一つは「巨乳に過ぎやしないかい」問題に関して。まぁこれはゲーム版からそうなので、テレビアニメ版を責めるわけにもいかんけれど。けど、(嫁にしたいほど好きでも)まゆりの巨乳っぷりは「いや、そんなやつそうそういねーよ」だし、鈴羽は巨乳だけでなくスタイルが超絶に良過ぎており、その母親である阿万音由季もパーフェクト過ぎていて、「いるはずねーだろ」のレベル。いやもちろん「実在してもおかしくない」のは確かだけどさぁ、身の回り見回してみろよ、「そんなに大勢完璧プロポーションばかりか、ばかりなのか?」だろ?

てわけで内面にはどれだけ共感しようが、いったんこれらが気になりだすと「うぅ、まゆり、おつぱいでかすぎ」が気になって内容が入ってこない、そんな日もある。

もう一つがまさに「近年のアニメ全般」に対して言いたいことだったりする。「女キャラの目デカ過ぎ問題」。

いや、正確に言うと、「アニメの女キャラの目がデカい」ことそのもの、ではないのだ。昔の、そう、手塚治虫が活躍していた時代の、「リアリティがもともと重要視されていない」キャラクターがどんだけデフォルメされてようと、これはそうそう気にならないし、それこそ「ザ・少女漫画」の目がでけーのは「そーいうもんなんですっ」と思っちゃえば勝ち。気にならないと思い込むことならいくらだって出来る。

気になっているのは、「ある時期を境に一気にリアル路線に突っ走ってきたアニメ界全体」の流れからしてどーなんだ、てこと。実際シュタゲも、男のキャラの目の大きさはかなり現実の比に近いサイズで描かれていて、それでも「みれる」し「かっこいい」く描けているのだから、果たして女キャラでそれは出来ないんだろうか? と思ってしまうのだ。

最近のアニメは、たぶん業界に標準のソフトウェアでもあるんだろう、背景はとかくリアルなわけだ。だからその背景から浮いてしまわないようなキャラクターデザインを生み出すには、きっと苦労は多いことと思う。だったらなぜ、と。なぜに目の大きさだけ「デフォルメがデフォで異論は許さぬ」な風潮のままなん?

まぁこれは髪の色についても言えたりするけどね。全員黒だと見栄えしない? でもリアル風味つーことなら、日本人を描くなら「染めてない人々(黒)」と茶髪の二択なはずでしょ、青・銀・オレンジなんか、「相当勇気がいる人」だ、めったにみかけない、だろ。

てなことが「気になる日もある」。まぁ大好きな作品であって没入しちゃうんで、ほんとに気にしてんのは一瞬なんだけどね。

あ、そういえば、キャラデザに関しては、「岡部」がゲーム版とテレビアニメ版の違いが激しいので、一方しか知らない人はご注意。ゲーム版の岡部はかなり「病的」なビジュアルをしている。テレビアニメ版は「かっこいい」と思うね。ほかのキャラはほとんどゲーム版とテレビアニメ版は印象に違いはない。(ただしゲーム版の「CGライブラリ」に入ってくる一枚絵は、特に紅莉栖がかなり幼く描かれててだいぶ印象違う。毎度これ、気になるんだよな。)


「白馬の王子様に出会った」感、の話から。

シュタゲの「観方」として面白いのはこれは「主観」と「客観」を自在に駆使しながら読み解くこと、だったりする。そしてこの「主観」という言葉、シュタゲ世界観を理解するために、最もといって良いほど重要なキーワード。

再掲:

無印アニメ版を基準とし、無印ゲーム版を「無ゲ」としてる。
 1                                                +--------------------------------+
 2                                                |                                |
 3                                               ゼロ8話 --------------------+     |
 4                                                |                          |     |
 5                             [線]まゆり ---+    |        23話ベータ --- ゼロ1話  |
 6                                           |    |          |                     |
 7 無印1話 --- 14話 ----- 18話 -----------[  22話  ] ---- 23話 ---- ゼロ23話 ------+
 8   |          ||         | |               ||              |
 9   |          ||         | +---------+     ||            24話 
10   |          ||         |           |     ||             | |
11   |       [線]紅莉栖   [無ゲ]       |  哀心迷図          | +--- 25話(OVA)
12   |                    ルカ子END    |  のバベル          |          |
13   |                     |           |                    |   (現存在のアポステリオリ)
14   |                     |           |                    |          |
15   |                    [線]ルカ子 --+                    |        劇場版
16   |                                                      |
17   +------------------------------------------------------+

シュタゲは原則として「岡部主観」に基いて「TRUE ストーリー」が構築される。上図においてここから外れるのが挙げたスピンオフすべてと劇場版で、これらは「岡部主観から見えない世界」を描いている。要するに「岡部の記憶の一部をなさない物語」。

話として面白いのはここから。今の話は「物語世界での話」。つまり「[線]紅莉栖」なら「紅莉栖主観(視点)」という話だが、よくよく考えればもう一つ、「神なる視点」(「客観」)が存在する。つまり「プレイヤー視点」。

我々プレイヤー(or 視聴者)がつい忘れがちになるのが、「「プレイヤー視点」で観ている」ことなわけだ。つい神様視点で観ていることを忘れてしまうということ。このことに気付かないと、無印24話の紅莉栖の「白馬の王子さまっ」的なファンシーなスイーツ(笑)表情の本当の意味がわからない、というカラクリ。というか、製作者たちがそのことを良くわかって作っているのよね。(じっくり読むとよくわかるんだけど、「主観」「世界」といったあたりの言葉を特に注意深く使っているのがわかる、ハズ。)

実際紅莉栖主観に実際になってみればわかることだし、なってみないとわからないことだが、「シュタインズ・ゲート世界線に到達した結果の紅莉栖」にとって岡部はこれはもう、「白馬に乗った王子様」にしか見えないし、そう感じないならこの女は冷感過ぎる。なぜなら紅莉栖にとっての岡部はこの世界線において、「父親に~される」前に現れて「お前を助ける」と切実に言ってくれた王子様であり、挙句に「~されるのから救ってくれた」王子様であり、「なのに名も告げずに消えた」王子様であり、そして秋葉原を探し回って「やっと出会えた」王子様なのだ、これが王子様と言わずしてなんと言う。のみならず、「デジャブ」あるいは「夢」で一緒に闘い、愛しあった「気がする」王子様でもあるというわけだ。

これはまぁ比較的わかりやすい方の「主観の行き来」の話。結構なバカでも多分すぐにわかる。

案外伝わりにくくて、プレイ後ちょっと経ってから気付くのが、「ゼロの A ルートと B ルートの関係」。これは少しは考えないとわからないかもしれないし、あるいは気を抜いていくつかのセリフを見逃してるとほんとにわからない可能性がある。

これ、「岡部主観」と「プレイヤー目線」をはっきり区別して理解しないと、間違いなく混乱する。

まず「岡部主観」で「両ルートを経由し、どちらの記憶も持って記憶が継続している」ことがありえないことに注意しなければならない。つまりあくまでも「岡部主観」は「TRUE ルート」だけであり記憶の継続はこの範囲内でしか起こらない。「TRUE ルート」でないルートは「可能性世界線として分岐」した先の世界であり、「TRUE ルート」の岡部にとっては「起こらなかった過去・未来」なので、「A ルートの岡部は別の岡部」なわけだ。

ゼロのゲームの構造が面白いのはまさにこのことを逆手に取っている点。「TRUE ルートの岡部」にとっては「起こらなかった過去」の先にある未来の岡部から D ライン(「世界は騙せる」)が届く、というわけだ。そしてこの構造がそのままアニメ無印の23話に対応する「ねこぱんち」に繋がる。このシカケにはさすがに痺れる。(「アラがあっても許す」なんてことになるのも、つまりはこうした「だとしたら」の方、具体的には世界線解釈と主観解釈がかなり厳密で完全だからだ。)

この構造がテレビアニメ版に踏襲されなかったのがちょっと残念ではあるんだけどね。まぁ23話で収めようとするとあぁなっちゃうのは致し方ないのかな。

あぁ、ゼロだとテレビアニメ版に踏襲されなくて残念なシーン、最低3つある。一つは沖縄のくだり。二つ目は、アニメ版では「まゆりと鈴羽が時空の彼方に消えたあとの、amadeus がいる未来」に指し換わってしまった 2036 年のシーン。「まゆりが生きている 2036 年」はアニメだと世界線変動前の未来、つまり冒頭の「あの日、私の…」のシーンだけだけど、ゼロのゲーム版だとこれは A ルートで「スターダスト・シェイクハンド」というコード名を名乗っててめっさカワイイ。そう、3つ目も未来の話で、2025年の真帆の「クリス」。真帆は「クリス」を名乗ってる、という。こういう細かい設定が、結構ゼロだとアニメ版では抜け落ちてて、ちょっと残念に感じることもある。

なお、逆にテレビアニメの方が増量されててゲーム版の方が物足りないのが、最後のタイムマシン破壊とその回避の繰り返し部分。ここはテレビアニメの方が一回分多く、テレビアニメの方を先に見てると物足りなく感じる。(というかそもそも、かがりと萌郁の件があるのでテレビアニメの方が「素直に」感動できる、というのもあるんだけれど。)


「白馬の王子様に出会った」感、の話からもう一つ。

何回かシュタゲ話をしてる中で書いてるんだけど、「女目線で観て、愛おしく、苦しい」わけね、この作品。この具体的な話。

まず第一に、「α世界線」の紅莉栖は、岡部が好きで好きで仕方がないのにも関わらず原則として「まゆりに嫉妬」し続け、そして「岡部の心は決して私を向いていない」とずっと思い込んでいる。だからアニメ22話の「どうしてそんなこと」「と…言いますと…」はこれは本当に「びつくり」してる素直な表現、なんだよね。(線形拘束のフェノグラムではまゆりにこのことを吐かされるが、まゆりには「ばつが悪そう」と見抜かれ、紅莉栖本人はまゆりに「あいつがバカなことを言ってきて混乱しているだけ」と誤魔化そうとする。)

ちなみに「まゆりに嫉妬」のシーンでテレビアニメ版で印象的な「紫色髪紅莉栖が落涙するインターカット」、これ、「シュタインズ・ゲート・エリート」でちょっと使われ方が違ってるようで、これは演出家の解釈の違い、だな。これはちょっと気になった。(テレビアニメ解釈は「こんなにも大事に思える人がいるのか」に係っていて、なので、「私ではなくまゆり」という解釈が成り立つが、エリートの方は同じカットを「私が死ぬこと」への感情に対してあてている。これは印象が全く違う。)

岡部と紅莉栖の違いてのは、岡部は「ほんとに気付かない鈍感おとこ」なくせに気付いてからは行動が早いのに対し、紅莉栖は(劇場版のスピンオフも含めてトータルで)、自分の気持ちに気付くのはめちゃくちゃ早いくせに、自分を誤魔化し続けるわけな、行動しない。あんだけわかりやすく大好きっぷりダダ漏れだろうが、本人的には「本気で誤魔化してるつもり」らしく、そしてそれに気付かない岡部も岡部で、なので「バカ岡部っ」は実に真実である。

さて。これは「α世界線」での基本構造。これがβ世界戦では。

今度はまゆりが紅莉栖に嫉妬し続ける構造になる。β世界線ではまゆりは紅莉栖には出会ってすらいない。「織姫さまになれないとしても」という台詞での「オカリンにとっての織姫さま」は、「もう輝くことのない(死んだ)紅莉栖」であるという。

α世界線の紅莉栖もβ世界線のまゆりも結局「死んでいる/死んでしまう」という「永遠に勝てない恋敵」を相手にしているわけで、ともに「不戦敗」なのよね、当人たちにとって。「戦えない」と思っているわけだ。この構造がつまり苦しくて、ツラいわけだ。

線形拘束のフェノグラムでは紅莉栖とフェイリスの関係において、この構造に関する言及がある。まぁテレビアニメだけ観てても、フェイリスが岡部に想いを寄せているのは伝わるとは思うけれど、フェイリスについてはやっぱりスピンオフを知らないとあんまりわからんかも。ともあれ線形拘束のフェノグラムで、「岡部をめぐって正々堂々闘えるようにしようぜっ」みたいなセリフを投げかけられたりしている。

そう、シュタインズ・ゲート世界観においては、「シュタインズ・ゲートに到達」しないことには「ピュアな恋愛もの」には決してならず、そしてめでたくシュタインズ・ゲートに到達した無印エンドで初めて、「嫉妬や同情や気後れのない純粋な気持ち」をぶつけることが出来た紅莉栖がそこにいて、だからこそあのラストシーンが響くわけである。ツンデレのテンプレみたいな描かれ方は確かにされてるし、多少そうかなとも思うけれど、ただこのラストのデレはいわゆるツンデレのテンプレのデレとは本質的に違う。むしろ王道少女漫画の方のテンプレの方が近いだろう、そう、「白馬に乗った王子様」なのだ。(もしくは「運命の赤い糸」。)


はにゃぁ。今日はこれで満足しとくか、キリないし。つーかまだ書きたいことあるかしら? わからん、あるかも。