本日とて読んじゃややん

シュタゲ以外の話もしないでもないかな。

「舌の根も乾かぬうちに」とはこのことを言う。ワタシ、シュタゲな話を初めてしたとき、こんなことを言っちまったのだ:

なんつーかさぁ、「評論」かましたいほどドはまりしとるわけなんだけれど、あまりにファンの多い作品であるし、何を書いても今更感だったり、「どこかで見たような」ものになるだろうと思うんで、まぁ「意見」を書くのは出来るだけ避けようと思う。コンパクトに言えば(原作ゲーム・スピンオフ等々全部通して)「アラ探して何十個も文句があろうが 100点満点の 99点」と言いたくなる作品、ということ。

よくぞ言ったもんだ。して「言いまくっている」。いや、言ったこと忘れてたわけではないよ、わかってたけどダメなのよ、止まらなくなる。


一度シュタゲから離れ。でも直前の話には関係する。

結局ワタシは自分自身が書く文章の「ファン」でもあって、自分で書いたものは結構良く読み直している。つーか「ブログを書いてない期間」にそれをしてることはまずなくて、そうした期間は書くことだけでなく「ブログそのものから離れてる」のだけれど、こうやって連投してる時期は、かなりの頻度で自分のブログをしみじみ「鑑賞」している。(だから「「意見」を書くのは出来るだけ避けようと思う」と書いてしまったことも後悔(?)し続けるハメになる。)

読み直すネタのトリガーになるのはやはり「Popular Post」からになるわけなんだけれど、なんでなのかな、「ひとさまが飛びついたネタ」(いわゆる「バズってるネタ」)そのものには結構「自分で書いたくせにあんまり好きじゃない文章」てのが多くて、ひっそり埋もれてるなかに「とんでもない名作(迷作)」があって、自分でもびっくりすることがある。よしんば「これ、ほんとにオレが書いたのか?」と思うものさえある。最近読み直した中だと、いくつか書いた「天声人語かよ」シリーズの一つの「読んだ、が… – 「MIND CHANGE」」はね、まさに「自分が書いたとは思えない」。そ、、、そうか、これが「中の人」か、小人さんか? 小人さんなのか?

一度「オレ的オレブログ全俺ランキング」を付けてみたいなぁなんて思うこともないではない。これやると「Popular Post」で常時みえてる「お人気」とは驚くほど乖離したランキングになる。無論もはや千を超えた記事数相手にそれをするのは正気の沙汰ではないし、そんな無駄な体力使いたくないから絶対やらんけど。

なんであれさ、普段ワタシは「自分がバカ(or 無能)であることを自覚している」つもりだし、普段からそう言っているもんだとばかり思っているわけなんだけれど、そうやって自分の読み返してると、「えらくクレバーな人」に見えることがあるんだよね。まぁ細かいツッコミ入れ出せば相当バカが滲み出てるんだけど、初見では「そういう人」だと見られかねないようなものが結構あるのよね。(まぁそういうのは案外人気を博してないんで、ある意味誰も傷付けてない気はする。)

なんつーのかな、ちょっと気をつけた方がいいのかもな、とも思った。


「自分が書く文章のファン」と言った。

ワタシのブログがこうして曲がりなりにも続いているのは、「広告収入で食っていけるからだ」…、なわけはなくて。一応広告貼ってるしその収入はゼロではないよ、けど、未経験者は想像つかんかもしれんけど、それって「限りなくゼロに近い」わけだわ。ある程度の人気ブロガーでない限り、ふつーの不人気ブログ運営なんて原則赤字。ワタシのケースだとロリポップ!の月額を支払う「足しになる」程度しか入ってこない。実際そんなもんよ、「稼ぐ」ためにブログやってるわけじゃないというマインド面もあるし、そもそも「その努力はしてない」のだから。そうしたきゃ twitter 活用して宣伝するなりすりゃぁ、もっと流入は上がるだろうさ、けどこれはワタシの性に合わないし、必要だとも思わない。

じゃあなんで続いてるのか。そ。「好きだから」。もしブログを今更始めようと思うような奇特な人がいるようなら一応注意しておきたい。自分の書く文章が好きになれないなら、絶対に始めない方がいい。「義務感」が漂うようになったら、「収入」という動機なしには絶対に続かない。そして「働かなくても喰える」ようになるにはこれは、血の滲むような努力が必要、な可能性が非常に高い、よほどの運がない限り。元々最初から稼げるのは「元から稼げてる人」だ、つまり「有名人」は「ブログでも」稼げる。一般人がこの境地に至るにはそれなりの覚悟と努力と投資が必要。もしも少しでもブログを書く行為に「義務感」を感じるようになったらこれは「やめどき」、あなたは絶対に向いてない。


そろそろ解禁、シュタゲ話。まだあったよ、まだまだある、のかも。

これも一番最初にシュタゲの話を始めた際に口走ったことへのアンサーの一つ。「0 と 1神話」なんて言い方をした。これは主として「タイムリープマシンの仕組み」部分への根本的な突っ込みが基本なんだけれど、そうでない箇所でもいくつかあって。

ゲーム版だけのシナリオなんだけど、「シュタインズ・ゲート・ゼロ」で、レイエスが牧瀬紅莉栖の記憶データを自分にダウンロードしようとするくだりがある。「ダルが直前にデータ削除に成功したので云々」という顛末。

まぁ SF ファンタジーとして面白いんだろうなとは思うけれど、「脳科学リテラシー」じゃなく「コンピュータリテラシー」がちょっとでもあれば、このくだりには即座に突っ込み入れれる。

実際問題「タイムリープマシンの仕組み」部分はね、ワタシはテレビアニメ版で全然釈然とせず、「全く実現可能性皆無にしか思えん」と思ってみてからゲーム版をトライし、そこであまりに詳細に検討されていることに驚き、そしてやっと「それでもやっぱり相当実現可能性が低い」とわかった、という流れなんだけれど、このレイエスのくだりはリアルタイムでツッコミ入れてた。「あるあ…ねーよっ」。

「記憶の上書き」の実現可能性の、「機器面」は実はレイエスのくだりでは「ありえない」とまでは言えない。ここでは携帯電話でもスマフォでもなく、専用の機器を使っている。現実にもこれに近い医療機器は多分既に実在してるんじゃなかろうか。

ツッコミはそこではなくて。「削除した」んじゃねーの?

このツッコミの内容を理解するには、たとえばパソコンの「ファイル削除」が通常行うことを理解している必要がある。知らない人は想像すらしないだろうけれど、現存しているコンピュータに搭載されている現存しているオペレーティングシステムが搭載している「ファイル削除」が行うことはこれは、99.99% が「使用されていた領域を名前の束縛から解放する」ことである。つまりディスク領域と名前のリンクを断ち切る、これだけ。別の言い方だと「再利用可能にする」。C 言語の知識があるなら、「malloc と free」が行うこととの類推をすればいい。(ファイル削除の API が「unlink」なのはまさにこの振る舞いを指している。)

実際ディスクデータのサルベージが技術的に可能なのも、主としてこれが理由。そう、中身は「即座には消えない」。ほかのもので再利用され続けることで、いずれ元の面影が少しずつ失われてはいくけれど、運が良ければ(悪ければ)完全な形で復元出来る場合もある。また、Unix でシステム異常終了後に「lost+found」(落し物・忘れ物)に復元出来ることもあるのも、このシカケのおかげ。

なので「厳重なセキュリティ」のための「完全削除」系のソフトウェアは何をするかというと、無論「データ内容を滅茶苦茶に破壊してから通常の unlink を行う」。「滅茶苦茶」の内容は「オールゼロ」だったり、「ランダム」だったり色々だが、いずれにしても使用していた領域全域を元のデータからかけ離れたもので上書きする。(これは「普通の公式のシステム API」だけでは出来なくて、もっと低層の API を使う必要がある、ような気がする。たぶん普通のプログラミングで違うデータに差し替えようと思っても、物理ディスクの位置が動かないことは保障出来ないと思うので。)

では、ダルはあの短時間で何をしたのか、ということが問題になる。その「完全削除」をした? 名前はそのままに? そう、「ダウンロード」という行為であり、そう出来ただから、「記憶データを特定してレイエス側端点に送信」は成功したはずなのだ。つまりレイエスの脳に作用するためには、最低でも「その名前での受信」そのものは成功している必要がある。それでも「空っぽの恍惚」に至る「データ」ってなんだ。

「ゼロ神話」。

「ダウンロードに成功したはず」という観点に立てば、「成功してしまったダウンロードデータ」はこれは「無」ではありえない。必ず何かしらのデータであり、脳に作用しうる電気信号だ。それは「ゼロデータ」なのだろうか? ここからはきっと脳科学、かしらね。周波数ゼロの電気信号、だろうか? それは害なのかな? これは「わからない」としか言えない。「ランダムなデータ」ならば、「狂乱」状態にはなるかもしれないが、「虚無」にはならないのではないだろうか。もっといえば、「ホワイトノイズ」は害とは限らないという考えもある。実際画像処理や音声処理ではわざわざホワイトノイズを入れることで「キレイにする」ことは良く行われる。ダルがホワイトノイズに近いようなランダムデータに差し替えたのなら、「レイエスには何の害もない」無意味な信号ということもありうる。

「記憶や人格を抹消する」ような信号とはなんぞ、を考えるなら、これはもう「脳そのものを破壊する」ほどのインパクトのあるものか、そうでないなら「位相が正反対の信号」のどちらかなのではないのか。後者は「あるあ…ねーよ」。前者は…、まぁ先の「ホワイトノイズなら害じゃないのかも」の反論だよね、ないではない。どっちにしたって「ゼロだから脳の内容が空になる」という理論は、「あるあ…ねーよ」てほどではないにせよ、案外想像しにくいのだ。

で、シュタゲシナリオの問題は、この「多分この好意的な解釈ではない方」だと言うこと。「好意的な解釈」をしても無理があるということなのだが、そうでないならもっとシンプルに、これはまさにNo Data Found でデータが見つかる奇跡に通じる話。そう、どうやら「記憶データ受信に失敗」と言いたいらしい、し、実際問題そう解釈した方がセリフ解釈はスムーズだったりする。機器そのものへの記憶データ受信が成功していないのなら、機器からレイエスへ「送信」されたデータとはなんぞ。「No Data Found」が送信されたのだ、そうに違いない。

レイエス話、ヲシマイ。


ついでなので「0 と 1 神話」という言葉で私が言いたいことを、ちょっとだけちゃんと言い直しておく。

どうやら人々は、「デジタルなる深遠なるもの」としてとらえがちなようであるが、そうした人々が忘れがちなのが、「その 0 と 1 を表現(記憶・記録)している物理現象としての何か」の存在である。

当たり前だがこれは「パソコン」においては「ハードディスク」であり「メモリ」だ。そして「光ファイバー」を通行中ならこれは「光」であり、Why Fight?ワイファイなら電波であり、磁気テープなら磁気だ。そう、「0 と 1 とて刹那刹那には構造の束縛から逃れられない」わけである。つまり「データ」は概念でも抽象でもなく「物理現象」なのである。

ワタシが「タイムリープマシンの仕組み説明のホワイトボードと口頭説明の各矢印個別に詳細検討するとツッコミ入れれる」と言ってるのはまさにこの話。「そこ、何でどう運ぶ」の検討が、かなりの矢印で欠けている。


Why Fight?

これは「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」のネタね。知らない人はこれの画像検索で多分一発で見つかると思うんで探してみて。

シュタゲ無印を初めて全話完走後、あるいは走行中に「何を思い出しながら」観ていたかの話。結構ワタシと同じ人多いと思うんだけれどこれは

もちろんバック・トゥー・ザ・フューチャーでっす
異論あるわけないよね

なわけはなくて、当然「ターミネーター」「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」と、あとワタシの場合は萩尾望都(の特に「銀の三角」)ね。

別にバック・トゥー・ザ・フューチャーがダメダメな作品だとは言わないけれど、シュタゲと比較するような作品ではないことはこれは誰の目にも明らかだろう。ワタシにとっては「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」との比較が特に重要で、それを考えることはとても楽しい。

いずれにしても「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」も「シュタゲ」もどちらも、「NO FATE」「確定した未来なんてものはない」ということに「向かう」物語という点において共通していて、なおかつ「運命論に流され、揺れ動く」物語である点においても共通している。

言ってみれば「ゼロの覚醒前岡部」は、ある意味でサラ・コナーに似ている。サラは「諦めてはいない」ようでいて諦めているところがあって、「確定している未来」への立ち向かい方はどこか常に消極的で抜本的でないところがある。これがラストシーンでジョンとの決定的な別離となって帰結することになる。

「諦めているようで諦めていない」という言い回しは真帆が岡部を評して言う言葉であり、多分真実を突いているとは思うが、これは無論「深層心理」という内面を指す形容であって、行動はやはり逆で「諦めていないようでいてやはり諦めている」。確定した未来を変える行動は決してしないというわけだ。これが TSCC の「キャサリン・ウィーバーとジョン・ヘンリー (T-888)の手による未来」を信じることが出来るか出来ないか、のジョンとサラの行動の違いという構造と基本的に酷似している、てわけな。

こういうさ、本当に好きになった作品どうしの共通点探しってさぁ、ほんと、嬉しくなるよね。台詞の共通項や類似性を探すのもほんと楽しいし。


シュタゲからちょっと離れて。

2018年のアニメ、についての、特に「4~12月」で象徴的だと思ったことがあった。まぁ「ポプテピピック」はある意味で「事件性」はあるがその話ではなくて、ワタシにとての事件は「サンライズ」「円谷プロ」「桂正和」の三点セットだ。

そもそもどの期でも「なんぢゃこりゃぁ」な作品は溢れ返る。かくも有象無象、毎期の作品数は尋常じゃない数なので、いわば「箸にも棒にもかからないなんぢゃこりゃぁ」は日常茶飯事で、そのほとんどは「特定のマイノリティに媚びた」もので、たとえば「ロリに媚びただけ」の作品は必ずある。ワタシは結構なロリ好きだけれど、媚びた作品ならお断りだ。あるいは「メディアミックス、やってみました」だけの成功してないメディアミックス作品も茶めしごと。同じく「ラノベ」もしくは同じラノベ系でも特に「なろう系」(「小説家になろうぜ」発信のものてこと)は、7~8割は初見で振るい落とせる。

「サンライズ」「円谷プロ」「桂正和」。このいずれでもない「なんぢゃこりゃぁ」な事件だった。何がしたいんだろう、しかも今このタイミングで。

「時代錯誤感覚」(昭和臭)も、うまくいけば響くことは「ひそねとまそたん」が証明しているので、「古い感性が悪い」ということでもないと思うんだよな。何がいけなかったんだろうと思うんだけどさ、なんつーの、「過去の栄光と成功体験」てやつなのじゃないのかしら、て感じがした。「こうしときゃおまいら喜ぶんでしょ」とバカにされてる気しかしないんだよ。「SSSS.GRIDMAN」「あかねさす少女」「DOUBLE DECKER! ダグ&キリル」。ちょっとなぁ、タツノコプロ・赤塚富士夫・松本零士に続けっ、で失敗したのではないのか、と邪推してみるが、たぶん外れてないと思う。


うーん、まだ何か書こうと思ってたことがあった気がするんだけど、忘れちゃったし疲れたからいいや、次にしよっと。