本日の読んだらダメだとよ

どうせシュタゲ話だよきっと。

これで書いた「倫太郎」呼びの話。改めてゼロゲーム版の TRUE エンドラストを見返した。真帆は本人に向けてではないけれど、「2010年の倫太郎は恥ずかしくないのかしら」とハッキリ(ダル相手に)言っていた。

「ベッドのくだりで紅莉栖を意識して、という例の問題シーン」はね、これはほんとに何度も何度も見返してるのだけれど、何度見返してみても「どっちとも取れる」という持論は覆らないのだけれど、ただ、「どっちと解釈した方がより素直か」に関しては、最初の頃の印象とは変わってきてる。

最初の印象はほんとに五分五分だと思ってたのだけれど、いや、違うわ。これは「6:4」もしくは「7:3」で「真帆は岡部が好き」だ。その4割ないし3割の解釈は、人によっては「深読みし過ぎ」に当たるだろう。素直に感じとるまま解釈すればこれは真帆自身の言葉、だろう。そしてそれでもなお「紅莉栖の気持ちを代弁している」説も捨てがたい、て話。

このシーンに限らず、真帆はいつでも「紅莉栖と岡部が築いてきたであろう関係」に想いを馳せ続けているわけよね。そこには嫉妬の気持ちもあるし、大好きな紅莉栖の「私の知らない紅莉栖」を知る岡部、という興味の気持ちもあり、しかもおそらく「紅莉栖と岡部は恋愛関係にあったに違いない」ということに関しては、間違いなく出会った瞬間に既に真帆は気付いているわけね。

真帆がずっと不可思議に感じ続けたのはこれは無論、「紅莉栖と岡部は恋愛関係にあったに違いない」を直感で即座に感じていようが、避けがたい「事実認識」とのズレなわけだ。なぜなら紅莉栖は来日してすぐに死んでしまっているのだから。ベータ世界線においては実際岡部と紅莉栖の接点は、わずか10分から20分程度の出会いでしかなく、真帆が認識している「時間」とこれはまさに一致していて、「そこまでの短時間でここまでの関係になれた何かがあったはずだ」という興味をずっと岡部に対して抱き続けるわけだね。

と考えてみるとアレなわけよ。真帆はまさに岡部に出会った瞬間から既に「興味津々」な対象だったことだけは揺るがないのよね。シュタインズ・ゲート世界線における紅莉栖と同じく、ベータ世界線の真帆もひょっとしたら岡部は「白馬に乗った王子様」に近い、何か運命的なもの、なのかもしれない。少なくとも接点は少なかろうが、はなから「どこの馬の骨」ではない、「モブではない気になる男性」として目の前に現れた、てことにはなる。つまり、実は最初から恋愛フラグ、なのかもしらんなぁと。


スピンオフ作品の「自由粒子のラナウェイ」の話。

これ、要するに「オカリンだけハーレムエンドとか、爆発しろっ、ていうか爆発させるっ」な、ファンとしてはちょっと嬉しい気分にもなるような、だけれども乙女な気分としてはあまりに残酷な話でもあるわけね。要するに「女ども皆が岡部の嫁になりたい」話、そして岡部はそれを選べない、て話。岡部に幸せになって欲しい、と思うファン心理としてはなんつーか最も腑に落ちる落としどころだなぁ、と、幸せな気分にもなりつつも、「でも岡部はワタシのものよっ」と悔しい気分にもなるっつー、なんとも罪な作品。

この作品内で誰よりも強く「嫁になりたい、なったつもり」になってるのは当然紅莉栖で、完全にその気になってる。けれどもまゆりも同じくらい、「ううん、ぜったいちがう、わたしもくりすさんにまけないくらい」嫁になりたいっぷり爆発させている。

これ、「ゼロを経たのちのシュタインズ・ゲート世界線」の話、ね。厳密に考えるなら、なので、ここでの岡部以外のキャラは、「体験」としてアルファ世界線、ベータ世界線の記憶を持っていない。だからお互いに対しての「同情・気後れ・嫉妬」は、あってもこれはごく普通のものだ。誰も死ぬ運命にないし、誰も既に死んではいない。(無論「おふざけスピンオフ」なのでそこはいい加減だけれど。)

だからここで岡部の嫁になって幸せになる確率はこれは「平等」で、より積極的にアピールした女が「勝つ」のだろう、きっと。そして「未来で岡部は「選択しなかった」」というのが、女たちにとって「負けなかったが勝たなかった」という感情となって「爆発する」って顛末だわな。この「バカ岡部っ」。

基本的にそういう話なんだけれど、ここでも真帆ね。この作品、一貫して真帆は傍観者を気取ってて、この岡部争奪戦に積極的には参加しないんだけれど、いやいや待てよ、と。実際「子煩悩岡部」に真っ先に反応するのは真帆。そして、この作品内でいつもにも増してポンコツ属性発揮してる紅莉栖、アホの子まゆりらの「冷静じゃない女ども」を尻目に、実は真帆が岡部をかっさらっていく未来はないのか?

岡部と真帆が夫婦(あるいは恋人)、てのは、シュタゲファンが想像する中では「最もない」ものだと思う。が、これがあるとしたら結構面白いんじゃないのかと思うのな。特に「それを見守る紅莉栖とまゆり」を想像するとなおさら。そうなったらどうなっちゃうんだろうかこの二人。考え出すと夜も眠れない。


そういえば、「シュタゲ」の「ゲーム感」について、一度も書いてこなかったので一応ちょっと触れておく。

第一印象はこれは。やった人は等しく同じように感じると思う。「ゲーム? なの? これ」。

無印では「フォーントリガー」、ゼロは…えっとなんだっけ、呼び方忘れた。とにかく「携帯電話かスマフォ」に、どういうタイミングで、どうリアクションするかによって、ストーリーが分岐していく、ってシステムなわけね。

これがね、いわゆる推理小説系のアドベンチャーゲームみたいに、「こう反応すればこうなるのかしら?」という推測が、全然成り立たないのだよね。「なぜそう分岐するのか」は、少なくともプレイヤーからは「想像出来ない」。あとから読み返してみればそういうことか、とわかったとしても、リアルタイムでやってる中で「こう反応すればこうなるに違いない」を推測することはほとんど不可能。しかも、どれだったかな、無印かな? 「キャンセル」出来ないんだわ。メールを開いて、回答の選択肢を「開くだけ開いてみて」としたいのに、確かどれかの作品でこれが出来なかった。

なので、プレイヤーとしては「あらゆる選択肢を試してみる」か、攻略サイトに頼りきりになるかどちらかということになり、ワタシはもちろん後者。なんだけどさ…。ワタシ、無印で、「紅莉栖エンド」(≒TRUEエンド)に行くつもりで進めてたのに「まゆりエンド」に辿り着いてしまったときには、ほんとに本気で泣きそうになった。「まゆりエンド」もとても幸せな気分にもなれて好きだけれど、だけど「まゆりエンド」は「もうやっちゃった」後なのだ、こうなった場合、「いったいどこのセーブポイントまで戻ればいいんだぁ」と大声で叫ぶことになるわけだ、ていうか叫びましたよ。

分岐が始まるのが確か3章からだったっけかな。これが3章まで戻らねばならんのか、ってなるとこれは、時間にして丸一日から二日分の分量。だから「そうであって欲しくない」と細かくセーブしてきたセーブポイントを少しずつ戻るわけだ。結局どこまで戻ったかは忘れたけど、とにかくめでたく紅莉栖エンドに至れたのはやっぱり丸一日後。疲れたよほんと。

シュタゲはつまりは「ゲーム」ではなくて、「やるドラ」。「参加型ドラマ」というものでは決してないんだけれど、少なくとも自分のタイミングと自分のスピードで読めるドラマ。絵があって動くから「小説」ではない。エリートでないなら、それほど動きがないので「アニメ」とも違う。主役はやはりテキストで、感情表現は台詞だけでなくこのテキスト、つまりモノローグで多くが語られる。

テレビアニメと一番違うのがもちろんそれね。主観・目線の主による独白部分はテレビアニメでは当然ほとんど表現出来ないので、このテキストだけで表現されていた多くがテレビアニメでは抜け落ちる。無論そういうところも表現できるかどうかがテレビアニメの演出の手腕であって、「表情や仕草」でそれを伝えることになるわけだね。それでもやっぱりそれは限界があって、結局ゲーム版でしか伝えていないこと、ってのは結構多い。気付いたあとの岡部の紅莉栖、特にゼロでの「紅莉栖のそういうところ」を言葉にしてはっきり描いてるかどうか、てのは、ゲーム版はテレビアニメの比ではない。

あとちなみに無印ゲーム版の、特に「紅莉栖ルート」をちゃんと辿ってる間の紅莉栖メールの「デレ」っぷりは、かなり凄くて、かなりこっぱずかしくなる。まゆりメールも、本編内で「ちゃんと」語られることが一度もない微妙に衝撃の事実(なぜコス作りするようになったか、とか)も散りばめられてて、全部真面目に読んでるだけで面白い。(けれどメール全回収は凄まじく大変。分岐に関わっちゃうから。)


同じくゲーム版の話から続ける。そもそもワタシが「ゲーム版もやってみよう」と思った動機は、これはもちろん「単に好きになったから関連のものはなんでもやったれ」というファン心理だけではなくて、実際問題「テレビアニメで不審に思ったこととかわからなかったこと」が埋まるだろうか、という期待があったから。

それともう一つが、テレビアニメだけ観てると「謎が残る」ように思えた箇所が何箇所もあって。特にゼロの「阿万音由季」かな。ほかにも色々。というのと、「この世界観でまだ描けるところはあるだろうか?」という興味。

「不審に思ったこと」の最大のものだったのが、「なぜに電子レンジでタイムリープマシンが作れるという発想がありえるのか」の部分だった。SF においてこんなのはさ、「あぁ、ありそう」と思えば勝ちで、つまりは「現実には決して無理でも、少しだけ飛躍すれば出来ちゃうのでは」であれば十分なわけだ。だけれどもシュタゲのテレビアニメだけ観てたうちは、ここ、「電子レンジとブラウン管テレビでどう考えればミニブラックホール?」はまったく伝わってこなかった。つまり「ありえそう」について1ビットも共感出来なかった。この点について、ゲーム版できっちり納得出来た。納得、てのはもちろん「あぁ、ないこともない」てことね。ここに至れただけでも大収穫。(それでもダメじゃん、て思ったって話は散々書いてきた通り。)

「この世界観でまだ描けるところはあるだろうか?」は、つまり「世界線移動」という道具ってさ、これを使うと無限にコンテンツを量産出来るんだよね。だって「可能性世界」なんだから無限でしょ。だけれども「描きたい/描き足りない」って、果たしてあるだろうか、てのが興味だった。

これについては、ワタシの中ではテレビアニメ・ゲーム版・スピンオフ全部通した結果、「どうやらもう描ききってるように思える」で結論付けた。テレビアニメ版だけ観てたうちは、無印23話の、「紅莉栖はひょっとしてタイムリープしてきたのでは?」部分を膨らませたスピンオフもありえるのでは、と思ったが、これは近いものが線形拘束のフェノグラムでやられてるので、まぁ「やってもいいがやらなくてもいい」くらいのネタかと思う。そしてもちろん無印だけ観てたうちは、「23話のまゆりびんたに至るまで」(つまり2025年の岡部からのムービーメールに至るまで)を描けるだろう、と思ってたが、当然これこそが「ゼロ」。

同じく、ゼロの「洗脳」の考え方と扱い。これを膨らませられるな、と思ったら、ゲーム版で全部やられてた。ゼロアニメだけ観てたときにさ、「amadeus の悪用」の可能性はずっと考えながら観てたんだわ。こうして考えてた全部、文字通り全部。こんな具合で、「ここをもっと膨らませられるな」とワタシが思ったことごとくがちゃんと作品になってた。

なので、「もうびっくりするようなスピンオフは作られなそうだなぁ」とちょっと寂しい気分もないではなくて、だけれどもひょっとして、という期待もないでもなくて。ていうかそろそろシュタゲではない作品も観てみようかという気にもなりつつある。綯の未来の話(JAXA の話らしい)とダルの未来(?)「ロボティクス・ノーツ」だっけか。少し共通してるところもあるみたいだね。


シュタゲの話を離れて。

今期のアニメ、不作では、と書いた。どうも少なくともワタシにとってはもはやこれは確定で、恐るべきことに、まだ一つとして「これは完走出来そう」がない。というかこのまま一本も観ない可能性が濃厚になってきた。

これがワタシだけの感覚なのかと思って気になってちょっと世間を見てみたら、どうも皆がそう思っているらしい。これは昨季に関しても同じ。「昨季はゾンビランド・サガのみ」、今期は彼らの言い方だと「タツキアンチの暗躍のみ」なんだそうな。

まぁそもそもアニメの絶対数が多過ぎるんだ、みながみなこうでは、枯れるときは枯れるだろうさ。どの期もワタシは「3つ気に入れば御の字」のつもりで観てるし、実際真剣に見始めた 2017 年末からずっとそんな感じ。3つが0になるなら驚くようなことではない、んだろう、きっと。

そうはいってもなぁと。結局今のワタシは「だったらシュタゲ見返そうっと、飽きたら宝石の国もあるし、響け! ユーフォニアムもあるし、なんなら夏目友人帳もあるし」で逃げられるからいいけど、やっぱり新しいものに出会う楽しさてのは本来捨てがたいわけで、ちょっと寂しい。一つくらいないもんなのかねぇ、と思うよ、ほんと。