本日さえやぱーり読んぢゃややん

一つ前のが前菜だとしてこっちがメインデッシュ、てなんでぢゃ。シュタゲ話オンリー。もういいでしょ。いいよね。

シュタゲ話してきた中で、「間違いと言いすぎ」を一つずつ見つけて弱ってしまった。

一つ目。ゼロのゲーム版をやり直してみて、記憶違いに気付いた。真帆が「私のことは真帆と呼びなさい」というくだりで、ワタシは「あなたのことは倫太郎と呼ぶわ」なんだと記憶してしまっていたが、実際は「あなたのことはオカリンさんて呼ばせて、私のことは真帆と呼びなさい」の間違いだった。一言一句写経したわけじゃないけどおよそこんな言い方。随分印象違うよね、「倫太郎」と「オカリンさん」では。

もう一つは直前ので書いたやつで、「ゼロのルートAとルートBの関係について」の話。

そこでは「関係について気付きにくい」と言ってしまっているのだけれど、当たり前だが普通にプレイしていて「ルートAがルートBに繋がる」ことに気付かないバカなプレイヤーはほとんど皆無なはず。だって「そう説明している」のだから、ルートA エンドは。

ワタシがそこで言いたかったのはそう、「主観」の話で、この「ルートA岡部」が最後に D ラインを送信後に「どうなるのか?」と「送られた側の TRUE ルート岡部」の「主観」としての関係性の話。これはほんとにちゃんと考えないとまずわからない。「「ルートA岡部」が最後に D ラインを送信後」岡部はひょっとしたらリーディングシュタイナーが発動するのかもしれないが、いずれにしても「TRUE ルート岡部」にとっては「起きなかった過去の先の未来の岡部」のことは知る由がない。こうした「違う岡部」の主観どうしの関係、これを考え出すと知恵熱が出る。

言いたかったのはそういうことだが、読み直すとそうは読めない。「「ルートAがルートBに繋がる」ことに気付かない」と言ってるようにしか見えない。すまん、そういうこっちゃない。


「倫太郎」呼びの件。

真帆が岡部を「倫太郎」と呼ぶのは、(ワタシの記憶では)大きく2箇所。どちらもゲーム版のみ。

一つはベッドのくだりで紅莉栖を意識して、という例の問題シーン。どっちとも取れる、解釈に悩むシーンね。ここでは「紅莉栖は岡部さんをなんて呼んでたのかしら。やっぱり倫太郎かしら。」という具合に、解釈によっては「真帆としてはそう呼びたい」のかしら、と思えるような表現がされてる。なのでこれは「倫太郎と呼んだ」のではないんだけれど、少なくとも真帆の心中として「倫太郎呼び」が登場する一つ。

もう一つは未来での話。2025年だったか2036年だったか忘れた。ゲーム版の未来の真帆、となるとルートA 2036年とルートB(TRUE)2025年のどちらかだが、後者だったはず。だとするとアニメ版での真帆による例の「締め台詞」に対応するシーンで、直接岡部に向かって「倫太郎」と呼んでいるシーンではなかったと思うけど、確かここは真帆視点になっていて、その心理描写内で岡部を「倫太郎」と呼んでいたと思う。

「真帆が岡部に想いを寄せているのかどうかが伝わりにくい」と言ったけれど、実際「状況証拠」そのものは結構いっぱい散りばめられていて、やっぱ好きなのかなぁ、と見直せば見直すほどわかったりもする。ということであれば、だ。真帆はある意味「恋敵として紅莉栖に嫉妬し続けている」という解釈も可能になってくるというわけだ。

紅莉栖はα世界線でまゆりに嫉妬し、まゆりはβ世界線で紅莉栖に嫉妬し、真帆は過去から未来においてずっと紅莉栖に嫉妬している、てわけだね。

というか真帆については、「色恋」以外の、「人生負け組色濃厚だががむばる」的なとこにはそもそも共感の持って行きどころの多いキャラだと思うわけだわ。それにもまして、「なんだかとってもありがちな色恋な嫉妬」もからむと、ますます真帆が愛おしくみえてくる。


「倫太郎呼び」に関しては、『ドラマCD γ「暗黒次元のハイド」』がかなり色々衝撃的だったりする。

このドラマCDにおいては「倫太郎」と呼んでいるのはフェイリス。ほか、まゆりが岡部を「岡部くん」と呼んでいたり、紅莉栖が鈴羽を「鈴羽」と呼んでいたり、とまぁ色々とにかく、あるいはひょっとしたら、「最も苦しい」スピンオフ作品かもしれない。

シュタゲは TRUE ルートにも枝葉ルートにも「凄惨」だったりとにかく欝なシーンは盛りだくさんの作品だけれど、「暗黒次元のハイド」は1時間(だっけ?)ずっと辛くて苦しくて、かなり体力があるときじゃないと、キツくて頻繁には聴き返せない。


フェイリスの話が出たのでついでに。

フェイリスほど「スピンオフと本編の扱いが違う」キャラはいなくて、特にテレビアニメ本編のフェイリスしか知らないと、私が「シュタゲで親友にしたいナンバーワン」と言わしめるほどのものは、まず十中八九伝わらない。これは本編に限ればゲーム版でも同じで、フェイリスは基本的にはやはり原則「モブキャラ」で、印象には残るだろうけれど、普通は「そこまでか?」に留まる。

実際無印本編もゲーム版とテレビアニメ版では、「4℃のくだり」が省略されたくらいの差しかなくて、このくだりで「フェイリスの魅力爆発」してるというわけでもないので、モブキャラ感はどっちみち強い。ただ「主観についての議論と論破」のくだりは、「実はフェイリスは凄まじく頭が良い」ことを伝える重要なシーンなので、これを省略してしまったテレビアニメ版の方がやっぱり少しは印象薄くなってるかな。

ところがスピンオフになると、途端にフェイリスが大活躍し出す。なんだろか、製作陣にフェイリスのファンがいるんだろう、きっと。

「哀心迷図のバベル」はこれはもちろん表向きは紅莉栖の物語、なんだけれど、実際はこれはフェイリスの物語でもある。というか人によってはフェイリスの物語にしか思えない。

線形拘束のフェノグラムの紅莉栖ルートは、もちろん紅莉栖の物語、に決まっているが、これだって見方によってはフェイリスの物語であるとも取れる。同じく線形拘束のフェノグラムのフェイリスルートは、これは「鈴羽とフェイリスの友情」の物語で、ここでのフェイリスはとにかくかっこいいし惚れる。かっこいい、というか、かっこ悪いところも含め。

ほかにもまゆり絡みのルートでも重要な役割を果たしていたり、と、とかくフェイリスは大活躍で、そしていつでも「とてつもなくいいやつ」だ。きっとこれら全部を観て(聴いて)もらえれば、「親友にしたい」と思う気持ちはわかってもらえると思う。


「暗黒次元のハイド」の話が出たのだから。桐生萌郁の話をワタシはあんまりしてないんだよね。

桐生萌郁もテレビアニメだけみてるのとゲーム版もやったのとでは随分印象の違うキャラ。というかこれは「ゼロアニメ」のせい。

そもそも「ラウンダー」は、ゲーム版ではゼロでも「敵」だったり「味方」だったりする。分岐するルートによって常にこれは揺れる。ゆえ、Mr.ブラウン、桐生萌郁は、「敵だったり味方だったりする」。この事実は無印版の構造そのものでもある。というか無印では原則「敵」だけれど、「共感」は出来る表現になっていたわけだが、これがそのままゼロに引き継がれていて、岡部の選択次第で味方にもなるし、相変わらず「時をつかさどるもの」争奪の一翼のままである。

ところが「ゼロアニメ」は、これは基本的に「ルートAとルートBのいいとこどり」で構成した関係で、ラウンダーは決して敵にならない。ので、Mr.ブラウン、桐生萌郁は常に岡部の味方として描かれ、なんなら「Mr.ブラウン、桐生萌郁、かっけー」で終わる。

なんであれ桐生萌郁というキャラは、場合によっては共感出来る対象ともなる、魅力的ともいえるキャラ、ということにはなるのだろうな、とは思う。思うのだけれども、て話。ここからが本題。

まずね、ゼロのゲーム版の桐生萌郁の扱いは、アニメ版しか知らないと衝撃だと思う。哀れ過ぎる、悲しいよ。てだけじゃなくてさ、「ラボメンなんじゃないの?」と思うんだけれど、なぜかゲーム版、テレビアニメ版全部通して、「未来の桐生萌郁」が一度として登場しない。無印では桐生萌郁はほとんどのルートで死んでしまうので、この未来がないのはわかるのだけれど、ゼロの場合は死ぬことは確定事項にはないはずなのよ。

なんかね、ワタシは桐生萌郁にはさほど思い入れはないのだけれど、だからって「ラボメンなら桐生萌郁の未来もあっていいはずだ」とだけは思うのよね。少なくともβ世界線だときっと生き続けたはずだよね、と思うのだ。あるいは何かの事情で死んだのなら、そういったシーンが描かれても良かったんじゃないのか、とも。

全般どのキャラにもめいっぱい愛情がそそがれてる作品だと思っているけれど、細かいことを言い出せば、こういうのもある、てことだわな。


「嫁にしたい」と言いながら、まゆりについての話が少ないのは。

「書けない」からなんだよね。分析的に言えない、「好きだ好きだ好きだぁ、好きだぁ愛してるっ」としか言えない。

紅莉栖はポンコツなのがいい、って言ったじゃない。こういう言葉にしやすいことなら書けるわけだよ。そもそもその「ポンコツ」の具体も説明しやすいし。というか本当のところはまゆりもいわゆるポンコツで、まぁ普通にみれば「あほの子」だとは思うんだよ。だからそういう切り口で魅力を言葉にすることはきっと出来ないこともないんだと思う。

けどやっぱり結局のところは「さすが俺の嫁、結婚してくれ」てなフブキみたいな言い方しか出来ない。というか感情が評論を許さないて感じ。

ただまぁ「視聴者(プレイヤー)」としての「オレ」がまゆりを愛してる、てのは別のところで、「まゆりは岡部と幸せになって欲しい」という風にだけは常に感じて観てしまうわけだね。「岡部と紅莉栖」にも幸せになって欲しいから困るわけだよ。だから紅莉栖目線で苦しい。「まゆりは岡部と幸せになって欲しい」というのはこれは(自分への嘘だとしても)紅莉栖の気持ちそのものでもあり、結局のところは岡部がゼロのゲーム版ではっきり言うとおり、「みんなお前のことが大好きなんだ」てことに尽きるのだろう。こういう愛され過ぎるキャラというのもな、見てる方は困る、の巻。


ストーリーの話とはちょっと離れて。

劇伴や主題歌なんだけどさ、これの半数以上に原作者の志倉千代丸さんが噛んでるんだよね。これは当然「世界観の統一」に役立つ、という「役割」の話はわかるのだけれどもさぁ、て話。

「作詞」だけの参加ならさ、なんならクドカンなんかもそうでしょう、別に今や珍しいとは言えない。けど「作詞作曲」全部やってるみたいなのね。随分なんでも出来る人なんだね、すげーや、尊敬する。

「「役割」の話」はさ、これは聴けばわかるよね。物語に登場する言葉をそのまま使うし、ストーリーに沿った歌詞になっている。ちゃんと聞き取らずとも、「ファティマ」で「無限遠点」だの「二律背反」言うておるのは誰でも気付くでしょうよ。ちゃんと聞き取らないとわからないものなら、「ライア」のまゆりシーンバージョン(何話だ? 18か19話かな?)は、「織姫さま」云々のくだりがそのまま歌詞に散りばめられてる。

「ファティマ」、なのさ。ゼロのオープニング主題歌ね。これ、初めて聴いたときからずっと気になってることがあってな。

ワタシは何か曲を聴くとほとんど瞬発的に何かの曲に似ていることが感覚的にわかることが非常に多いんだけれど、このファティマがねぇ、「最低2曲に似ている」ような気がするのに、もう片方が「特定」出来ない。

一曲はこれはシュガーかな、「ウエディング・ベル」ね。これは聴けばわかるよ。たぶん聴いてもらえれば大抵の人は「確かに似てる」と思うはず。

もう一曲は喉まで出かかってるという感じのままもう何ヶ月も経つ。似た年代の歌謡曲だと思っていて、どうも斉藤由貴のような気がしているのだけれど、はっきりと何かというのがわからない。絶対ここいらの何かのはず、なんだけどなぁ…。


『「無限遠点」だの「二律背反」』からの話。

シュタゲのエピソードタイトルは、基本的に「数学か物理用語な日本語 + 何か外来語」という構造がほとんどで、特に後ろの外来語部分は「知らなくて調べたくなる」難しい言葉が多かったりする。外来語部分は同じく数学物理系が多いと思うが、神話とか哲学あたりからも持ってきてる感じかしらね。天文学からのもあるか。

つまりタイトルだけで色々遊べて面白い、のだけれども、な話。

「数学か物理用語の日本語 + 数学か物理用語の英語」が最頻出なので、「そのつもりで」読むと結構「拍子抜け」するタイトルも結構あってな。だいたいにして、作品は大好きだけれど「哀心迷図」ってなんやねん、とか。わからんけど語呂の感じ以外はこだわってないように感じるようなものが、特にスピンオフは結構ある。「自由粒子のラナウェイ」なんてまさしく。まぁこれは完全におふざけなスピンオフなので許容範囲かもしれんけどね。

つかさ。

「鈴羽は難しい言葉を使う人」として描かれてるじゃない? けどさ、そもそもこの作品、ほんとうは「字幕なしだとキツい」ほど、日常的に使ってる言葉が全般非常にこ難しい。なのでテレビアニメ版で結構な頻度で頭にクエッションマークが飛び交う。「じょうきょうをかいしする」…、「じょうきょう? じょうきょう???????」。ゲーム版も、(エリートじゃないなら)基本会話部分も文字付きで「読める」からなんとかなるけど、基本的に文字を失うと途端に「何言ってるのかわからない」部分が大量に出てくる。

志倉さんがそういう人、なのだろうか? とにかく言葉遣いがかなり難解。

『現存在のアポステリオリ』だとそのまさしく「アポステリオリ」と「アプリオリ」だが、ゼロの最終話の「~のエビグラフ」だって、「????」が駆け巡った。案外ワタシはこういうのに素養がない。

シュタゲが好きになる一つってこういう「頭がフル回転する感じ」でもあるんだよね。あんまし漠然と鑑賞出来ない。そのくせ瞬間湯沸かし器みたいに感情をがーっと持って行かれるんだからたまったもんじゃない、てことだわ。

そういや「何を思い出しながら観ていたか」で TSCC と萩尾望都を挙げたけれど、実はもう一つあって、そのゼロの最終話は、NODA・MAP の「パンドラの鐘」。これは観た事がない人には伝わらないはずだけど、観た人はたぶん「あーあそこね」とわかるんではないかと。これは簡単には観れる作品ではないかもしれんね、けど、演劇に少しでも興味を持っているなら、一度観たらいいと思う、どうにかして。(ワタシは富山にいる頃 BS 視聴出来てたので、そこで NHK BS で観た。)