本日だってやーぱり読んぢゃややん

連投だな。やっぱりシュタゲ話中心。

なんだろ、毎度書こうと思って書き始めるのに、なぜか書き終える前に書き忘れてることに気付かない。おつぱいの話。なんじゃそりゃ。

紅莉栖なんだけどさ、「バスト79」なんだってさ。これはゲーム内で言及されたんだったかしら、ちと忘れた。

「まゆりのおつぱいがデカ過ぎる」と書いたけれど、実際シュタゲは「ルカ子と真帆とフブキと紅莉栖以外は全員巨乳」というとんでもない世界で、特に萌郁と鈴羽と由季の三大巨乳はなかなかに尋常じゃない。

このうち真帆はいわゆる「ロリっ子担当」、フブキは「ボーイッシュ担当」、ルカ子は「男の娘」担当なので、いわば「役割のはっきりした貧乳」(ルカ子は女の子になった世界線でも極端な貧乳)なのだけれど、紅莉栖だけが唯一、ある意味「普通のおつぱい」なのね。

で、紅莉栖が胸の大きさにコンプレックスを抱いてるらしいことは、これは本編でもスピンオフでも何度か描かれてたりするのだけれど、そう、ワタシには「79ってちいせーの?」が感覚として全然わからない。かといって「バスト79」でググってみたところで、ワコールやらの下着メーカーの、やたらに複雑な「早見表」ばかりヒットして、ちっとも実世界とのマッピングが出来ない。

「バストサイズ」での感覚もわからないのだけれど、ワタシはどうにも「A カップ」だぁ「C カップだぁ」言われても、どんななんだかさっぱりでなぁ。どちらかといえば貧乳好きなワタシではあるが、どのサイズが「好みの貧乳」なのか、てのも実感としてわかってない。「C カップ」はどうなの、貧しいの、豊かなの? いや、極端なのはわかるよ、D~F だと公称するような有名人をみて「デカっ」てのはさすがに見てわかるし、同じく「笑っていいとも」で「A カッパーズ」なんてバカにされてた坂下千里子の胸が貧相なのはわかるし、足立梨花の貧乳っぷりが「望みの貧乳」なのもわかる。

じゃぁ「Bカップ」ってどんななの、「Cカップ」ってどんななの、バスト79てどんななの、ていう、「大きくもないし小さくもない」標準サイズになると、全然感覚的にわからない。身近な女子のおつぱいをしみじみ眺める…なんてことは出来ない…けれど、脳内再生してみるに、身の回りの女子たちはやぱーり B カッパーが多いのかしら、て感じはしてる。やや大きめ、の子はあれは C なのかな。と、「まさか聞くわけにはいかない」ので悶々とする。

ゲーム版が特に紅莉栖の胸の貧しさはわかりやすくて、特に白衣を羽織ってる紅莉栖の胸は、かなり平べったい。うーむ、これが79なのか? てのがやっぱり感覚的にわからない。そしてどういうわけだかアニメ版では紅莉栖の胸は若干増量してる。さすがに巨乳にはなってないけれど。


おつぱい話ばかりで恐縮だが、「まゆりの巨乳っぷり」に関して、アニメ版では不思議な現象が起こる。

なぜか制服のまゆりは、途端におつぱいが縮小する。明らかに私服バージョンのまゆりよりも胸が貧しい。なんだこれは? 締め付けてる? 盛ってる? いや、絶対盛ってるようには見えんよ、あれは生身のおつぱいだ。ならば制服時は何をしている?


そういえば、「無印アニメはゲーム版からの改変は少ない」とは言ったけれど、もちろんこれは「ストーリー」の流れについての話で、シーンの組み換えやら細かい設定の改変は当然大量にある。そりゃあのボリュームを23分x24話に収めるんだから、当然。この改変に関して、紅莉栖の「重要」シーンに絞って見てみると結構オモロイ。

「ヴァージンで悪いかっ」は、ゲーム版の方が面白い場所で言ってる。これはアニメの改変が残念だった一つ。

「あんたのラボって幼稚だけど心地いい」のアニメ版は「唐突」感が拭えないものの、これは面白い改変かもな、と思った。ゲーム版だとこれに対応するシーン、もっと理路整然としてるというか「必然」な感じがするシーンで言ってて、なので逆の言い方をするなら「妥当過ぎる」感じなのね、てのはアニメでの改変をみて思った。

で、一つとんでもないのがあって。「ねぇ…、岡部ってさ…、その…奥儀習得のためならなんでも出来ちゃうの?」はこれはアニメオリジナル。これはこれで「ポンコツっぷり」発揮してて趣があって「いいとも言える」のだけれど、ほんとはゲーム版だと対応するシーンはもっと「直接的なデレ」シーンなんだよね。残念、とかじゃなくて、正直このアニメオリジナル、かなり「なんぢゃそりゃぁ」感がある。

つーかちょっと説明誤魔化した、すまん。ワタシは「アニメ→ゲーム」の順で観てるので、これは「ゲームから戻ってきてみて改めてアニメ版をみると」て話。

全体通して結構同じシーンが別の場所で展開してるのは多くて、ただやっぱりそこは「テレビアニメ」。多くはとても印象的なシーンに進化してる。特にラボの屋上に場所を変えたシーンが結構多くて、どれも良いと思う。

ゼロの改変は元から多いってことはずっと言ってる通りなんだけれど、紅莉栖関係ではやはり8話。

これ、ゲーム版は二人のシーンは全部ラボ。一瞬だけ岡部が外に出るが、二人ともいるシーン全部、確かぶっ通しでプレイしてると40分くらいなんだけど、なので40分のほとんど全てがラボ内で、二人だけの会話が延々続く。つまりは「まさにそれがいい」てことでもあるのだけれど、テレビアニメ版は観た人はわかる通り。ラボ、駅前、紅莉栖のホテルと(たぶん)漫喫、電車内、まゆりの墓、そしてエンジェルラダー、最後にラボ、と、場面転換がこれでもかというくらいある。実際ここまで場面転換の多いのはシュタゲでは案外珍しくて。そしてそう、世間的に「神回」と言われる通り、これら全てのシーンがとても美しく、この改変はもちろん「大成功」ということにはなる。

ただ「感情表現」の面でアニメ版が勝るのか、となるとこれはまさに「甲乙つけがたい」としか言いようがなく、これは前にも書いたけどアニメ版の「聞き分けが良すぎて出来すぎ大人過ぎ紅莉栖」が気になるといえば気になる。胸が締め付けられるほどに痛むのはゲーム版の方。「感動」を定量的に計るのはそもそも難しいが、同じ感動量だと思う、思うけれど、「痛さ」はゲーム版が圧倒的に上。けどさ、アニメのエンジェルラダーのシーンの、岡部のアレを見る紅莉栖の表情、これがなんとも…切なくていい。


そういえば。シュタゲそのものからはちょっと離れるんだけれど、上で「神回」と口走ってしまったのでその話。

ワタシはさ、「意地でも神回言いたくない」人なのだわ。なぜなら。

だって、心底惚れこむような作品ならさ、ふつー「全話神回」のはずでしょ? 違うの? そうでないなら「神回」と口走った時点で「他の回はそうじゃない」と言ってるだけなわけじゃないか。

無論「ほかの回と比較して相対的に飛びぬけて素晴らしい回」があるのは承知である。シュタゲなら無印22話~24話、ゼロ18話あたりから全話、くらいかね、宝石の国ならやはりアンタークチサイト回。けどそれ以外の回が「神回じゃない」というのに抵抗あるわけよ。そうでしょう?

なんというか心情的にはこういった言葉は、「ダメな作品をそれでも褒めなければならないとき」にとっときたい。実際あるのだ、そういう作品。「全体ではまったくダメだがこの回があるから評価出来る」てのが。こういうときこそ「神回」使えばいい。つーかワタシが神回言うのが抵抗あるような作品はもうさ、「神作品」でよかろ? それ以上に何を言う必要がある?


昨日の「倫太郎呼び」の話に絡めて、この話をしようと思ってたのに忘れてた話。

シュタゲに限らないんだけれど、「呼ばれ方が変わる/呼び方を変える」の「私/俺」へのインパクトの話。これを重大なこととして描くアニメやマンガやドラマって多いでしょう? シュタゲでは当然まさしく「倫太郎」もそうなんだけれど、紅莉栖が「紅莉栖」と岡部に呼ばれたがっている描写は、それこそ何度も登場し、これが極端な形で描かれてるのが「線形拘束のフェノグラム」。「いつか紅莉栖と呼ばせてやるから」とは言うものの、クリスティーナ、助手、ザ・ゾンビ、セレセブと呼ばれて悪い気がしてないことも語られている。岡部は岡部で、照れくさくて名前で呼べなかった、とも言っている。

この感覚に関してワタシは「わかるわかる」「わからん」の両面感じていて。ワタシは「匿名言いつつ英語名隠してない」(半匿名)言うとおり、本名(の仮名)は「ひろあき」言います。響きが結構強いんだよ、「ひろあき」ってさ。なので、異性から突如呼び方変えられると間違いなくびっくりするし、同性でさえかなりこしょばい。実際職場で「紛らわしい苗字」の関係で上司(男・社長)から突然「ひろあき」呼びに変わったときもかなりドキドキした。(対して、後輩から「ひろあきさん」呼ばれてたこともあるが、こっちはなんか響きがやわらかいのでね、あまり違和感はなかったかも。)

「わからん」感覚は「呼び方を変える/呼ばれ方を変えてもらう」の方。男と女でだいぶ違うような気がしているのだが、「呼び方を変える」「呼ばれ方が変わる」のはこれが「事件」なのはワタシもわかるのだけれど、どうもワタシは「最初にどう呼び始めたか」「最初にどう呼ばれ始めたか」ののちに「その後どうしたいか」に執着してないらしく、だからそれこそ恋人関係になって呼び方呼ばれ方が変わる/変えるんでない限りは、基本的に「最初のまま」を変えようとしないししようとは思わない。つまり「いつか紅莉栖って呼ばせてみせる(し倫太郎って呼ぶっ)」って気持ちが今ひとつよくわからない。普通「そうした事件」は色恋に関係するだろうが、相手が「好きな人」だろうがワタシは全然「ひろあきと読んで欲しい」と思わないし、好きな相手の呼び方が苗字のままでも気にならない。怒られそうだけど。(結婚すりゃぁそりゃ実用面でイヤでも変わるだろうさ、そりゃ。)

身近な女子を観察してても彼女たちにとってこれは非常に一大事らしいし、それらアニメ・ドラマでもかなり重大事項として描かれるわなぁ。なので、好意を持った相手に対するアクションとしてのそれ、はさすがにワタシだって頭では理解できている。感情がついていってないだけで。

学生時代に、ある日から突如決意したかのように呼び方を変え、その後かたくなにワタシを「ひろあき」と呼ぶことにこだわった同期は、それはもう、まさに「こだわり」でワタシをそう呼び続けた。それが結構堂々という感じじゃなかったから、「だったらやめりゃいいのに」とさえ。まぁなんというかさ、女子の、しかもそいつ、かなりの美人だったんで、こっちとしては全然悪い気はしなかったけどさ、そこまで気にする理由もわからんなぁ、とずっと思っていた。あとさっきも言った通り、「ひろあき」ってね、響きが強いんだよ。「き」とか「け」(子音の k)で終わる4文字の名前共通と思う。なので余計に気になってたのかもしらん。

この件で重要なのは、「好意を持った相手」みたいな、恋愛感情とは一切関係なく彼女たちにとって「呼び方変える」ことがとても大事なことらしい、ということ。観察してて思ったことは、どうも男でいうところの「バディ感」に近いところに起因してるんじゃないのかな、と思ってた。男の方が多いサークルだったからさ、その中での少ない女子、としては、「仲間感」の形の一つとして、呼び方にこだわる、そういう構造かしらと。少なくとも上で例にした「かなりの美人な同期」はれっきとした彼氏持ちで、断言はしないがワタシに気があったとは思えない。というか気があって欲しい、てくらい、言っちゃえば「とびっきりの美人」だったんで、ワタシとしちゃぁ「残念無念」の一言だったりはすんだけど。(ちなみに芸能人で誰に似てたかを言えばわかりやすいよね。辺見えみりに一番似ていた。ほかにも色んなカワイイ芸能人に似てた。)


再びシュタゲ話から離れて。

実はシュタゲ以外にも、「比較的評価されている過去作品たち」をいくつか視聴してたりした。さすがにあまりの古典(エヴァとか)まで遡ろうとは思わず、遠くても10年を遡らない範囲内で。

「評価されている」とは違うんだけれど、安済知佳なので「棺姫のチャイカ」は全話観た。というわけでワタシ的にも「評価する」とは違うものにはなった。「うん、結構楽しめた」以上のもんではなかったけれど、そして「あぁ、太眉もえーな」とも思ったけれど、して最終回のなんじゃそりゃっぷりも思ったけれど、して、「意味のないオッドアイ」も思ったけれど。ま、なんにせよ「うん、まぁまぁ」以上のもんではなかった。好きだよ、けど人に勧めようとは思わないし、なんつーか気付いた人がひっそり楽しめばいいんじゃないか、て作品だった。こういうのこそ「一期一会」でリアルタイムで観たかったかもなぁ、と思った。きっと出会ってれば好きだったろうと思うし。

で、今度はちょっと怖いものみたさで、「評価も結構されてるが同じくらい強烈な批判も非常に多い」ことが見受けられた「新世界より」も観てみた。これはねぇ、ずっと思ってたのは「うん、たぶん原作は面白いのかもしらんね」てことのみ。面白いほどこれ以上の感想が出てこないアニメだった。いわゆる「作画崩壊」もかなりのものなんだけど、個人的に毎話気になってたのが「毎回 OP/ED のフォントが違う」ことだった。これが「演出」のつもりなら「んなことやってる暇があったら…」としか思わないし、単にサボっただけならシンプルに「アウトっ」でしょうよ。あとね、これは野狐丸に共感出来るか、早季に共感出来るか、ということに尽きるのだけれど、このアニメ、造詣が極端でさ、「野狐丸(スクィーラ)」がやたらに「気持ちが悪い」のに、その同族の奇狼丸が、その立ち振る舞いも造詣も「かっこよすぎる」ように描かれていて、だとするとアニメ版の製作陣はちょっと何か勘違いやらかしてねーか、て気がした。だって「奇狼丸=善」「野狐丸=悪」に誘導しようとしてるようにしか思えんかったもの。そんなバカなことを言いたい話には到底思えなかったわけだぁ。

「新世界より」の感触は2017年の「クジラの子らは砂上に歌う」にかなり近いんだけれど、ただ「クジラ」よりは遥かにちゃんと見れた。少なくともちゃんと「内容」だけは入ってきたから。アニメの出来は「こりゃヒドい」でも、脳内補間で補えるものなら観れるんだな、と思った。クジラはそれすら拒絶されたからね、「原作はすんげーんだぜっ」とどんだけ原作好きが叫んだところで、ちっとも伝わってこなかったもの。

あるいは「演出の差」かもしらん。少なくとも「新世界より」は、内容理解の妨げになるほどの「バカ演出」はクジラほど多くなかったように思う。クジラの方はね、原作ファンが「この監督は頭オカシイ」とかなり文句を言ってた。ワタシは原作は全く知らんし興味も持てなかったけれど、原作ファンが怒り心頭になるのにははっきりいって滅茶苦茶共感してた。そういう「ノイズ」は「新世界より」には多くなかったと記憶してる。(なかったとは言わない。ありまくったからこそ「内容しか入ってこない」かったわけだし。)

「響け! ユーフォニアム」からの流れで「山岡ゆり」「豊田萌絵」と「茅原実里」から手繰って観たのが「境界の彼方」。これはキャラクターデザインがそもそも結構好みだったかも。主題歌は実は種田梨沙(と山岡ゆり)による替え歌の方を先に知ってたりしたのは内緒。内容的にも結構好きだったかな。これも「一期一会でリアルタイムで観たかった」ヤツかもしれん。何度も見返すような、オールタイムベストに入るようなもんではないけれど、リアルタイムに出会えてたら間違いなく楽しんで観ただろうなぁってものだった。

「氷菓」も観た。これは実はなかなか「観方」が確定出来なくて、視聴しながら悩んでたヤツ。結果最後までみて結構満足はしたのだけれど、最初の4話までだったかな、そこまでの流れとそれ以降でその「観方」を強制的に変更させられた感じが、正直かなりとまどった。つまりその、「氷菓」そのものの謎解きが早々に終わってしまうのだよね。ワタシはそれがずっと続くのだと思ってみてたわけで、なのでその早々に終わったことで、「あぁ、これはひょっとすると、金田一少年の事件簿的なノリで観るのが正解か?」と考え直し、実際概ねそうだった。

あとこの作品ねぇ、「高校生にしては皆相当に頭が良過ぎる」のよ。これはなんなら「涼宮ハルヒの憂鬱」(正確に言うとワタシが唯一みたこれの非公式スピンオフの「長門有希ちゃんの消失」)にも感じたことで、少なくともワタシが高校時代には身の回りにまったく存在してなかった人種、ばかりが出てくる物語、だった。というかさ、ワタシはいわゆる進学校(一応県ではトップ)の高校に行ってて、「わからんでもない」雰囲気でもあったんだけれど、ただ「氷菓」の登場人物はワタシの高校の雰囲気から言っても想像出来ないほどに「天才的頭脳過ぎるヤツら」ばかりが出てくる。作者はいったいどんな環境で育ったのだ、という。なにがしか自身の経験に基くんじゃないのかね、と思うのだが、こうまで賢いのばっかがよってたかっているような場所、ほんとに見たことあるか? (大学以降なら別よ、そういう場所はないではない。)

なので実際それなりに面白くは観たのだけれど、なんだかんだその違和感が邪魔して、没頭は出来なかった。それにまぁ「金田一少年の事件簿なのか?」がそう外してないことからもわかるように、なんだかんだ「やっぱりラノベ」なんだよね、本質が。その「重いように見せかけた本質的な軽さ」が、結局没頭は出来なかった一因なのかも。(この感じは実は西尾維新の作品にも毎度感じるヤツ。「化物語」とかね。)

あとちなみに「観始めてるのに途中で中断してる」のが「SHIROBAKO」。これはアニメ業界の舞台裏を描いてる作品で、結構評価されてたっぽい。製作が P.A.WORKS なこともあって、観始めた。が、現在7話、で止まったまま。面白いとは思う。ただちょっと「乗り切れない」感じ。最後まで観るかは気分次第。リアルタイムのも追っかけつつだと、このまま観ない可能性も高いかなぁ。

そういや「メイド・イン・アビス」の話って書いたっけ? これも実は観た。これは「さすが評価されただけのことはある」。海外だとこれの評価は日本より高かったりする。ただ「2017年ベスト」となった場合に、ワタシはやはり宝石。そうはいってもアビスも大好きなことには違いなくて、しかも生涯ランキングには「入る」。間違いなく。順位としてどんくらいだ、と言われるとそこまで高くはないけれど。(ベスト10には入らない。)


同じくシュタゲ以外の話。

いやぁ大事なもん忘れてたわ。2018年アニメの件で。

つい「はねバド!」と同じクールで、なおかつ「はるかなレシーブ」とも同じクールだったんで、ちょっと記憶から抜け落ちてしまいやすかったんだと思う。「ぐらんぶる」。「はるかなレシーブ」はこれは忘れてたわけではなくて、好きではあったけれども、あえて言うようなもんでもなかったのであえて書くのを避けてた。で、それを避ける理由がまさに「ぐらんぶる」だったはずで、つまり「はねバド!」と同じクールの何か抜けてる気がする、って直感だったのだ。

「ぐらんぶる」はとにかく楽しかった。バカ系にして、古手川千紗が超絶に可愛く、吉原愛菜(「ケバ子」)も実はかなり可愛く、しかしながら二人とも絶妙にぷち壊れてて愉快。テニスの回が滅茶苦茶楽しかったな(「ナイスバディこてがわ~」のくだりな)。

こういうのを見て思い出すのってやっぱ江口寿史なんだよね。とびっきりの美少女とギャグ。これこそが「少年漫画」の王道、て気がする。ほんとのとこワタシら世代は「ドラゴンボール」じゃないんだよ。江口寿史だし、鳥山明ならあられちゃん。ギャグ+(美)少女、な。

少年マンガ的「美少女」といえば、江口寿史と山本直樹。この二人に適う者はいない、というかいなかった。まぁそれこそここんとこずっと文句言ってる桂正和もそうなんだけどさ、それはあくまでも「当時は」の話。

そういや今期アニメの話を一切してないが、これは「これから」て感じだからね。まだなんとも。ただなんとなく「不作かも」という予感。もう早いのは3話ってところだが、ファーストインプレッションでびびっときてるのはまだない。