久しぶりに宗教を。
「こういうことをしたくなるのはノイズを嫌うからだ」みたいなことを言った。もちろんその趣旨のほとんどは「見たくないものを見せられたない」だけれども、詳しく言えばそれだけじゃない。
今ワタシの Youtube は、どんな検索をしても必ず岡田斗司夫と養老孟子がついてくる。無論少なくとも一度以上は「触れた」からだが、これをワタシはともに嫌ってはいないし、なんなら率先して視聴することもある。オタキングについては BS 漫画夜話ユーザだった頃からの付き合いだし、養老孟子はなんなら「バカの壁」は買って読んだ。だから Youtube な AI はますます検索結果にこれらを優先するように強化することとなる。
要は「ワタシ本人に起因する連想ゲームと AI によるその強化」そのものがノイズなのだ、これじゃぁいつまで経っても「本題に辿り着かない」。だってワタシが今みたいのは、(たとえば)「松田利冴と遊んでおくれよ」なのだから。本来こういう連鎖は楽しいものだが、ワタシはそういうのを自動で押し付けられるのが好きじゃない、みたいなことって、少なくとも一度以上は書いてる。通販・オンラインショッピングが苦手で実店舗がいい、目移りは自分の力でしたいのだ、みたいなね。(それがどんどん難しくなってる、てことも言った気がするね。)
なんてことを考えてたら、まさにその養老孟子さんのこれが目に留まった:
まぁ押しつけもたまにはいいかと。
養老孟子って強い言葉を使い過ぎるもんだから、ワタシは率先して人に勧めるのが難しい人だと思ってるんだよね、「バカの壁」なんかその最たるもんだ、とても誤解されやすい人。ちゃんと咀嚼して自分で考えられる人でないと必ず危険思想に結びつくようなことばっかり言うんだよねこの人。めっちゃ正しくて共感出来ることばっかだけど、解釈を誤りやすいことばかり選ぶんだよ…。ちょっと困った人だ。
うぅしまった、また書き忘れしてる。タイトルはいわゆるタイトル詐欺。はっきりいって「解釈を誤りやすいことばかり選」ぶ結果としてまんまと誤解してるか、もしくは悪意だよこんなん。ビデオ内のどこでも「こういうヤツは頭が弱いです」なんて言っとらんよ。(そしてその誤解を生んでるのは、養老さん本人の攻撃的な語り口なので、まぁ自業自得だとは思う。)
ワタシのサイトでなぜか人気があって、だけれどもワタシ本人としてはそれをちょっと心苦しく思っているこれなんだけどさ、ここで「困ったちゃんコレクション」の話してるでしょう? 今回見つけた養老さんビデオで思い出したんだけど、「正解があると思ってる若者」もそういや個人的に苦労したなぁ、と思ったんだよね。連想ゲーム、なので、養老さんの主張とは同じとも違うとも言える話だけどさ。
リンク先の「数学と~」では、わかりやすい困ったちゃんについて書いたと思ってる。つまり共感を得られやすいとは思ってるんだよね。だけど「正解があると思ってる若者」は、これは実は年齢・経験値依存がもっと高いところにある話で、共感を得にくい気がしてる。つまり「正解があると思ってる若者」はこれは今の五十代・社会人経験30年すらも含む、根深い問題なんじゃないのか、と思うのよ。しかも「実害」はこれは一作業者であるうちは被る確率は低く、管理職に近いところにいるほど強く被害を受けることになる問題。
ワタシの問題だったことについて言うとさ。チームの皆が皆、「自分で探す」ことを主体的にまぁ全然やってくれなかったんだよね。「インプットがないとアウトプット出来ない」というのは「当たり前だ」と思うかい? ワタシはそうは思わない。「インプットを探して、アウトプットする」んではないの? ワタシはそう思ってやってきてたので、かなり驚いていたし苦痛だった。だけど、確かに若いほど「正解は与えられるもの」志向は強く、そして「インプットが与えられる」ことが当然だとする傾向が高く、そしてそしてその「若者」とは、まさしく今の60代未満なのだ、という恐るべき実情、てことだよ。
まぁ今50の若造が何を言うか、とも思うんだけど、ワタシがこの「困ったちゃん」と思う「若者」の思考癖の蔓延率の高さって、もはや後戻りできないほどになっちゃってるんだよなぁと。正直ワタシはある時期からここについては諦めるしかないんだなぁと思うようになってる。けど、たまには諦めず言ってみたほうがいいのかなぁと思った、の巻。
ついでなのでもう一つ。
今回の話の元となったのが「Youtube 検索時のノイズ」についてなので、まさにその「AI によるサジェッション」について最近特に感じるようになったことを、まぁ「改めて」よね。
たぶんね、今の30代より上の年代については、「サジェッションのない世界」を知ってるから心配はしないんだけどさ、でもワタシの Youtube 検索結果の「偏り」を見ててね、やっぱ心配になるんだよね。これ、「世界がそう見える」てことだもの。声優に関してしか誰も関心を持ってないんだよ今世界は、だってそうでしょう、ワタシの検索では声優ばかりがヒットする。
こうやって世界が個々に狭くなっていくというわけなのだけれど、不思議だよねぇ。インターネットは外に開いていくものだったはずなのに、現実には内に閉じていく力のほうが強く作用するようになっちゃってる。そういやぁ前に「110」の「常識」について書いたことあるけれど、それね。
「地上波テレビ」が均一・均質化の役目を果たしていたことにはもちろん功罪はあるけれど、それに近い役割を果たす、なんてーのかな、ベースライン部分を支える何か、が、今更ながらほしいかもしれんなぁ、と思った。そういうものがないから「1」「1」「0」に騙されるのじゃないのかねと。何か社会としてこういうことは考えたほうがいいのかもしれんなぁと。