情報量に比例して常識が薄くなる話

「詰め込み教育」なんか、まだ可愛い方だったんだな。

「スマートフォンの裏技」として、『「1を2回」「0を押して」「通話ボタン」で通信制限が解除されます』と、当たり前だがこれは「110番通報」になるが、この「嘘の情報」によって本当に110番通報してしまうというのが多発しているとのこと。

人生で経験出来る経験数や記憶出来るキャパシティにも限りがあるから、「知ろうとする対象」「結果、知っている対象」の絶対量には自ずと限界がある。だから人が持つ知識・知恵は、当人の趣味興味と経験値によって偏りを持つことになり、それが個人差となってあらわれることになる。

「1」「1」「0」「通話」で110番通報になることなど、そんなの常識だ。その通り。あるいは「通話ボタンを押してもなおそれと気付かない」ほどに、せっかちなのかもしれない。どちらにしても驚かされるが、これがもしも、「そうすることが警察への直通電話になる」ことを知らない人々によってもたらされているのだとしたら…? そんな怖ろしいことが、起こってもおかしくない、ということを、毎日のように感じながら生きている。

皆が同じテレビを見、皆が同じ漫画雑誌に夢中になっていた時代の「常識」は、常識は本当に常識と呼ぶにふさわしかった。無論それには功罪両面あったにせよ。ところが最近は、とかく「共通認識」や「集団の暗黙知」を形成するような場が、本当に少なくなった。いや、そうではない。「多くなり過ぎた」のだ。狭い分野の狭いコミュニティの、母数の小さな「知らなければならない常識」が多過ぎる。そして常識への認知度は個々について「薄まる」。ネチケットやインターネットセキュリティ、モンハンのマナーは熟知している優良児が110番通報を知らない、なんてことは、いまやいくらだって想像出来る。

「常識」という言葉がこれほどまでに危うくなるとは、20年前にはあまり想像出来ていなかった。日曜の「噂の東京マガジン」の人気コーナー「やってTRY!」はそもそも「若者の常識のなさ」を面白おかしく笑うものだったはず。ワタシ世代も、笑われる側だったし、知らないことを恥ずべきことと素直に思えたわけである。事実それは常識だったのだから。今となってはこれは全然笑えない。常識と呼べるほどに浸透しているものは日々少なくなり、知らないことを恥じ入るほど暇な若者もいない。


天声人語かよ。

「1」「1」「0」「通話」の件は、「スマートフォンという難しい電子機器」と「電話」が脳内で分裂してしまった、というのが真相だろう。何でも出来る、は、何にも出来ないのと同じ、という言葉がある。「電話としてしか使えない」ものが「電話としては最も使いやすい」のはこれは当たり前のことで、「通話ボタンは通話するためのボタンである」ことを忘れるのは、電話以外のことが出来てこそ起こる間違いだ。