いつもの読んじゃダメ話

どうせシュタゲ話。

シュタゲ内で、(ワタシの見た範囲内ではだが)「プラシーボ効果」が2度登場する。テレビアニメでは確か省略されてた。紅莉栖がゲーム版で2度使ってる。

一つは無印でダルが鈴羽の父親であることを見抜いたまゆりの「推理」に反応して。もう一つは「線形拘束のフェノグラム」のまゆりルートで、まゆりの「おまじない」に反応して。ただし後者はこれの日本語訳「偽薬効果」。

どちらの使い方も、ワタシにはめっさ違和感。

プラシーボ効果とは、本来「薬でないものを薬だと偽って服用させると効果が出る」という効果のこと。これについて実感を持って知っている人も多いかもしれない。特に子供を抱えている親であれば、自分の子供に対して「薬ではないもの」を与えて効果が出たのを経験した人も結構いるんじゃないかと思う。つまりはこれ、「脳を騙す」ということ。なので「プラシーボ効果」という言葉を何かの事柄に当てはめたい場合に、「騙す」のニュアンスがないものに適用すると、普通は違和感を感じる。

まゆりの推理はまさに「状況証拠を積み上げた完全な推論」なのでここに「偽薬」もなにもなく、「正しいと思われる推理なので」としか言いようがないはずのもので…言っちゃ悪いがワタシには「まゆりに完全にしてやられて負け惜しみで適当に難しい言葉を使ってみた」にさえ見えてしまった。

同じく線形拘束のフェノグラムの方もちょっと微妙。これは「おまじない」という風習に対して、プラシーボ効果を見て取っているのだが、まぁ確かにおまじないだって「脳を騙す」ということには違いはないのだけれど、ちょっとここまで適用範囲を広げちゃう言葉じゃない気がするんだよね。だってそれって「宗教=プラシーボ効果」てことに通ずるじゃないか。そんなたいそれたもんではないよね。あくまでもこの言葉は「非常に限定的な効果をうたいつつ実はその効果が皆無のものを騙して与える」ことに対する効果のことなわけだ。ここまで適用範囲を広げちゃうと、「なんでもプラシーボ効果で説明する」という、「馬鹿のひとつおぼえ」を量産しちゃうハメになろう。

てことは初見から感じてたんだけど、改めて考え直してみると、どうやら紅莉栖的には、というか原作者が「繰り返し言われるとそう思えてくる」ニュアンスで誤用している模様。この紅莉栖の2箇所での使い方はどちらもそれに当てはまる。

心理学と脳科学は、(お互いの研究者どうしは敵対意識もありそうだけど)本来は密接な関係があって、シュタゲ世界も「心理学」方面からアプローチする物語世界も、結構面白いものだったんじゃないかと思うが、実際はこの原作者は心理学の知識はかなり薄いようだ。


『「まゆりに完全にしてやられて負け惜しみで適当に難しい言葉を使ってみた」にさえ見えてしまった』に関連して。

ワタシには紅莉栖が天才に見えてるのかどうか、についての話。

そもそも「天才」だとか「出来る人」をちゃんと描くのって、とても難しいことなわけだよね。それこそ「偉人伝」みたいな実話ならともかく、ほとんどの場合は「身近にはいないし、自分もそうではない」目線からしか描かれないわけだから、つまりは「ワタシ」が描かれたその人物を「天才だっ」とか「すげーよまさるさん」と思うかどうかってのは、「ワタシ基準」にとってほんとうに「すげー」くないなら、なんなら「馬鹿に見える」わけよ。

要するに「想像で描かれた天才」像を本当に天才だと感じて観れる作品なんかほとんど皆無で、どんなに好きな作品でも、大抵はその部分は「差し引いて」観ることになるわけだね。あるいは多くの作品は「小人さんがいる」的天才像ばかり、つまり、理論的な説明等々何もなく「自動的に」なんでも出来る天才像、だろうね。

この意味で、じゃぁシュタゲの紅莉栖はどうなのか。

これはまぁ「シュタゲ全体」に対する理論的な齟齬について言ってきてることからもわかるかとは思うけれど、さっきの「プラシーボ効果という言葉の誤用」なんぞも「天才にはみえてない」ことの説明にはなってると思う。

なんだけれども実際はそれ以外の部分で、紅莉栖がワタシの思う天才像と違っている、てのがある。

無論、特にゲーム版だけど「知識」の面が驚異的だ、という部分の描き方は、これはこれまで観てきた色んな作品の天才像からいってもかなり「すげー」くて、とりわけタイムマシン理論についての講釈部分はほんとにワタシの知らなかったことばかりで、それこそ知恵熱がすぐにでも出るイキオイだった。つまり「賢い人」には十分見えている。

けれども、「ワタシがそう思う天才像」ってさ、なんつーの、もっとずっと「右脳的」なんだよ。しかも「難しいことがらを難しい言葉で説明しない」人たち。本当にすごい人ってさ、そういうところがあるんだわ。特に物理学、数学の天才ってのは皆そう。ファインマンでもいいしアインシュタインでもいい。彼らは皆「視覚的」に理論を着想し、平易な言葉で後世に伝えた人たちだ。なのでね、紅莉栖は「難解な言葉で誤魔化すあまり出来の良くないサイエンティスト像」の方が近かったりするわけ。

ただ…、「シュタゲそのもの」に対する評価と結局のところ同じ話に落ち着くのだけれど、「これまで観てきた他作品と比較すれば格段にちゃんと天才に見える」てことなのよ、つまりは「とても頑張ってる」。

まぁ結局のところは紅莉栖の魅力は人間性の方、なわけで、そこんとこは普通の作品と一緒だわな。


シュタゲの作品世界で、ひっそりと重大なテーマの一つが、「すごい人に憧れ、シビれ、嫉妬し、嫌悪し、憧れる」という複雑な感情、てのがあると思う。紅莉栖に対する岡部がそうだし、真帆の紅莉栖への想いというのもそう。

こういう質問の仕方するとちょっと気を悪くする人もいそうな気がして怖いんだけれど、「これ、リアルで経験したことある?」。

「自分」がどういうレベルにあるのかに依存する話なわけだけれど、ワタシにとって「シビれる、憧れる、嫉妬する、嫌悪する、そして失望する」という人が、これまで生きてきた中でたった一人だけいた。そう、「羨望」という複雑な感情からくるもろもろの「全て」を感じさせる人が。

大学院時代の一年上の先輩だった。それこそ人間的な部分では実はワタシとはまったく「合わない」人、要するにソリが合わない人だったんだけれど、ただ、それこそ「岡部が紅莉栖に、真帆が紅莉栖に感じるもの」そのものを感じさせる人で、数分会話するだけでとんでもない発想力と知識に「圧倒される」人だった。そう、「この人には一生勝てない」と思った、ワタシは。実際問題、身近にいた教授たちの誰よりもその先輩は「凄かった」。24、25歳だったワタシは、そう、まさに「自分に失望」したし、彼を羨望のまなざしで見続けることになった。そして「ソリがあわない」にも関わらず、ワタシはその人が大好きだった。ワタシが真帆に共感するのって、まさにこれなんだ。「大嫌いと大好きが共存」するんだね。

そう、さらっと書いた「失望」ね。その先輩、そのまま大学に残って続けてれば、きっと何かを成し遂げる人だったと思う。今でもそう信じている。けれども彼は、おそらく家庭の事情とかもあったのかもしれないし、あるいは、というかずっと感じていたんだけれど、彼は「自分を信じていない」人だった。マイナス指向、てのともちょっと違うんだけれど、どうも自分を相当に過小評価している節があって、結局彼は一般企業、しかも専攻とは無関係の職種に普通に就職してしまった。ワタシはこれは本当に悲しかったし、失望した。

あとにも先にも、こんな感情を抱いた人は彼だけ。「勝てない」と思ったスゴい人、は結構いたよ。といっても数人だけど。働き始めてから数人、それ以前でも数人。ただそうした人々に対してここまでの感情を抱いた人はいない。

シュタゲってさぁ、ワタシにとっては「リアルとのマッピング」が実際に出来ちゃう作品なんだよね、つまり「心当たりある」「経験ある」ことが盛りだくさんなわけ。その上で上げた「彼」については今でもふとしたことで思い出すことはあるけれど、シュタゲを観るまではやっぱちょっと忘れてたもの。シュタゲ観ててその「負の感情」も一緒に思い出してしまって、そういうのも含めて色々苦しかったり懐かしかったりした。


「厨二病」賛歌、なのかどうか、の話。このことは、初見時点からずっと感じながら観てたことだったりする。

なんていうのかな、シュタゲで描かれることってさ、結局のところ「馬鹿にされがち」だったり「是とされないこと」に光を当てている作品である、とも言えるわけよ。

ずっと思ってたのはね、「厨二病」というラベル、レッテルが「発明されてしまった」ことの弊害、てことを主張したいのではないのかしら、てことなんだわ。無論この「被害」が結構尋常ではないてのは知ってるさ。ネットの海で出会う厨二病患者の相手はワタシだってしたくない。けれども一方では「理想のリーダー像」ってさ、なんだかんだ、結局のところ「厨二病的」なはずなんだよ。ああいうのが「リーダーシップ」なんだと思わん? ロマンティストの厨二病でないとリーダーなんか出来るかいな、とすら思う。

現実に出会った「付いていきたいリーダー」は皆ロマンチストだったし厨二病だったぞ。あなたの身近ではどう?

こういうのってほんと「現代病」だと思うんだよね。なんでも言葉にして閉じ込めてしまう癖、なわけだけど、特に「強烈だと被害が甚大なもの、こと」に名前が付くと、「岡部的リーダーシップ」のすなわち「是の側面」全てが否定的なニュアンスとして把握されることになってしまうわけだ。

こういうことって、ちょっと前まではここまでヒドくはなかったと思うんだよな。最近特にますますヒドくなってないか? つまり「かつては是とされていたこと」あらゆることが、「かっこ悪く、是でない」として馬鹿にされ、嫌悪される風潮。シュタゲが主張したいことってのは、結局のところそういうとこなのじゃないのかしら、と。


前に「シュタゲは理論的説明は結構破綻してても、世界線・主観解釈の方が完全」という言い方をした。ただ本当はこれは正確な評価ではなくて。

実は無印とゼロでこれは違う。

無印は、「過去改変が世界線移動をもたらす」ことだけが正義、というか、要するにそれだけだった。ところがゼロでこれは少し拡大解釈が起こり、「未来を変えることによって世界線が変わる」ことも描かれるようになった。というかそう解釈しないと整合しないてこと。

このゼロでの拡大解釈を許容出来るか出来ないか、てこと。これね、そこはさすがと思うんだけれど、一応ちゃんと説明そのものは抜け目なくされてて、「未来が過去に繋がる」という世界観なわけよ。ただそれを、現状実際に検討されている色んな理論で許容出来るのかどうか、てのが微妙なんじゃないのかな、て思うのね。

これ、実際に絵を描いてみて欲しいんだけど、「過去A → 現在A → 未来A」「現在B → 未来B → 過去B」てことなわけよ。「直線で繋いだ絵は描ける」でしょう? だから「イメージ出来ない」というものではないんだけれど、だからといって「それってアリなん?」てことでしょう。つまりこれを受け容れられるかどうかによって、作品に対する評価てのは結構違ってくるんじゃないのかなと。


なんか今日は難解な話ばかり選んで書いたような気がする。ほんとは「サイコパス」の話を書こうかと思ったんだけど、真面目に調べだしたらワタシの誤解がわかったりしたんでやめた。あともっと心理学的側面の話もするつもりだったんだけど、まぁなんつーかワタシの底が知れてるもんで、あまり膨らませられそうになかったのでこれもやめた。

難解じゃない話もしないとなんか疲れるな、と思ってなぁ。なので。

「観点別キャラランキング」の話を前にちょっとしたけれど、このちょっと続き。

「一家に一台」ランキング、なんてのがつい思いついちゃってさ。これはワタシ的にはフェイリスなんだけれど、この切り口だと「ダントツ」にはならなくて、まゆりも僅差で2位にぴったりつけてる。

あと地味に「恋人にしたい」について言ってなかった。これこそ全然誰も独走しない。それぞれに皆良いので、「なんなら全員」と言いたいくらい。一番幸せな気分になれるのはまゆりと思うけれど、リアルな恋愛を思い出すのは紅莉栖、というか「ワタシ」自身がちょっと紅莉栖的なんだわ。似たものに惹かれる、てことならきっとリアルになら紅莉栖を好きになってるのかもしんない。実際そうだったし。(そのリアルな相手が紅莉栖に似てたかというと、少し似てたかもしれんけどそれよりも「自分に似てた」な。) フェイリスにアプローチされたら受け容れるだろうと思うし、なんだかんだ「ちゃんと理解出来たルカ子」はちゃんと好きなので、恋人になってくださいといわれたら受け容れちゃうかもしんない。フブキと付き合うのはほんと楽で良さそうだと思うし、カエデにはきっとワタシは思いっきり甘えてしまう。あー…、やっぱシュタゲって、ギャルゲーなんだよなぁ、こういう悩み方してる時点でこれはもうギャルゲー以外のなにものでもない。

実際問題としては、「似ているところもあり、全然似ていないところもある」という絶妙な線で、ワタシが恋人として本当に選びそうなのはやっぱ真帆なのかなぁ、という気はする。というかさ、真帆が投げかけてくる言葉って、紅莉栖と似てるようでちょっと違って、ワタシにはとても響くのね。そう、「真帆に言われたい」なんだよね。同じ言葉でも紅莉栖よりも真帆に言われたほうが「突き刺さってくる」。なんなんだろうね、アレ。人にもよるんだろうけれど、少なくともワタシにとってはそう。(感覚的なことを言うと紅莉栖は「自分が岡部に言ってる」気分になるのに対し、真帆は自分に向かってくる(「言われてる」)感じ。たぶん自分と重ならない「真帆」部分から来てるんだと思う。)


「ギャルゲー」で思い出したんだけれど、「比翼恋理のだーりん」の話。

これ、まぁ「ギャルゲー」色全開の作品、という評価だし、ワタシももちろん「ほぼそう思っている」のだけれど、ただね、初回プレイ時心底そう感じたのかというとそれも違って。

といっても「まゆりルート」だけなんだけどね。「これは単なるギャルゲーといっちゃうのはちょっと」と思ったのは。ほかは確かにギャルゲー。特に紅莉栖のね。ベタベタなラブコメ。かなり恥ずかしい。少なくとも「プレイしてるのを見られたくない」真性のギャルゲー。

まゆりルートは、確かにエンディングこそ「王道ギャルゲー」そのものだけど、そして筋だけ追ってる分にはまさにギャルゲーそのもののはずなんだけれど、ただこれ、ずっと切なくて胸が苦しい話なんだよね。ちゃんとハッピーエンド、しかもラブコメ的ハッピーエンドにはなるけれど、進行中にずっとデレまくってるかといえばそんなことはなく、シュタゲ本編を観てる/やってるのと感覚があんまり変わらない。てわけでこのまゆりルートがこの作品の中で格段に好きだ。

ついでにギャルゲー要素に絡めた「紅莉栖」の話。まぁ誰しも思うことだけど、作品内で実際「最もヘンタイ」で「最も妄想力逞しい」く描かれがちなのって、実は紅莉栖なんだよね、ダルじゃなく。特にスピンオフでの扱いがヒドいけれど、紅莉栖の妄想シーンがどれも笑っちゃって笑っちゃって。今井麻美と宮野真守も毎度かなりふざけた芝居してて、楽しんでやってるのが伝わってくる。(その「だーりん」のと、劇場版のドラマCD の宮野真守のふざけっぷりがかなりヒドい。)


「今井麻美」で思い出した。

シュタゲの主題歌・挿入歌・劇伴て、結構好きな曲が多いんだけれど、3曲だけどうにも腑に落ちないのがあって。

一曲目は無印のゲーム版だけの「technovision」て曲。CUPSULE っぽい曲で、曲そのものは嫌いじゃないんだけれど、シュタゲ世界観に合ってるようには思えないのだよね。特にこれ、どこで使われたかが非常に問題で、最初にラウンダーに襲われた世界線で、まゆりの手を引いて逃走するシーンで使われてる。いや…、合ってないって…。繰り返すけど「嫌いな曲じゃない」。けど全然合ってない。

二曲目が非常にワタシにとっては重大で、「曲が大好きなのにアレンジがやだ」てヤツ。ゼロの「星の奏でる歌」。これさぁ、物語世界でとっても大事でつまり「かがりとまゆりを結びつけた歌」であり、なおかつまゆり解釈によればまさに「彦星を目覚めさせる歌」なわけね。乙女心を発揮するまでもなく「ステキ」な歌、大好き、なわけだ。歌詞も響く。

が、エンディングに使われた「デュエットバージョン」の意味がワタシには全然理解不能で。Perfume 好きなので声の加工には抵抗はないよ、普段なら。けどさぁ、潘めぐみ、花澤香菜のせっかくのかわいらしい歌声を「加工」する意味ってあったの? 実はこれを聞くたびにちょっとイラっとして、なんならスキップしてしまう。

最後の一曲。麻美ちゃん、すまん、て感じだけどアニメの「World Line」がどうしても好きになれない。なのでゼロアニメのエンディングは、「World Line」になってから原則スキップ。これもなんか世界観にあってないと思うんだよなぁ。

ちなみに逆に「一番好き」なのは、「覚醒 – re-awake」。名前の通り「鳳凰院凶真復活」のシーンなどでかかる。あと「まゆりの悲しみ」。なお、「覚醒 – re-awake」も「まゆりの悲しみ」も他の曲のアレンジ違いみたいなもん、なので、当然そのもとになってる曲も良いのだが、そのアレンジがとても良いわけだわ。


そうそう、花澤香菜ね。

花澤香菜についてはワタシには「初めまして」では全然なくて、むしろ「疎かった頃から認知していた数少ない職業声優」の一人だった。はっきり「顔」と名前を知覚したのは実はアニメではなくて、NHK の「呪われたあの」音楽番組。名前は言いたくない、複雑な気分になるから。ともあれその音楽番組で歌唱で出演し、その歌を聴いたのが最初。その後も tvk で放映された(メ~テレ製作の)「名古屋行き最終列車2018」でも観た。あと微かな記憶で、タカトシのバラエティ番組にも出演してたような…。

なので、地の声も顔もずっと知ってた。

というわけで…、「まゆりの声が花澤香菜なのがいまだに信じられない」。全然知ってる地の声からあのまゆりの声に結びつかないんだよね。それに「空よりも遠い場所」の小淵沢報瀬、「はたらく細胞」の赤血球のイメージとも全然違うし。(赤血球が一番地の声に近いかなと思う。)

声優も顔を出す俳優もどちらもそうだけど、当然「地だけで勝負する(出来る)」タイプと「作りこむタイプ」の2種類いて、黒沢ともよなんかは前者(というか「地でしか勝負できない」なのかも)なんだけど、花澤香菜はどっちでもある気がする。

同じくシュタゲ声優の話なんだけどさ、「シュタゲで一番色んな役やってるのは誰か」はこれは田村ゆかり。クレジットされてる範囲だと無論「阿万音鈴羽」「阿万音由季」の二役、ということになるのだけれど、シュタゲだとそんな単純な話ではなくて。

つまり。「アルファ世界線鈴羽」「ベータ世界線鈴羽」「阿万音由季本物」「阿万音由季と名乗るある女」という最低4種類を演じ、本編から離れれば「ちび鈴羽」を演じる機会も多く、また、線形拘束のフェノグラムだと「謎の世界線(たぶんシュタインズゲート世界線だと思う)の鈴羽」(メイド服姿の鈴羽)てのも。

アルファ・ベータの差とかはまぁ「同時」には存在しない鈴羽なのでいいんだけれど、「鈴羽と由季」だけは、同時に存在する存在なので、当然同じシーンに二人いることも多い。これで思い出すのはやっぱり「夏目友人帳」の井上和彦。朗読劇やアフレコ風景を見るまでは想像もしてなかったんだけど、彼は「リアルタイムで」ニャンコ先生と斑を行き来するんだよね。なので、田村ゆかりさんはどうなんだろうかと。井上和彦のそれをみてると、声優ってやっぱそういう技術を持ってるんだろうなぁとは思う。(花澤香菜もその「音楽番組」で似たようなことをやってた。)


というかそもそも「ゲーム版」のアフレコってどんなだろう、てのは純粋に興味だったりする。テレビアニメと違って、ゲーム版の音声ってプレイヤーの操作駆動なので、基本的に「ブツ切り」で収録してるんじゃないかと思うんだよね。そういうのって、感情を乗っけるのが難しくないのかなぁ、なんてことは思う。

「感情」てことで言えばそういえば。

そもそも「職業として演技すること」の経験がないワレワレには、「感情表現」ということそのものがまったく未知の世界で想像もつかないわけなんだけれど、いつも思うのは、「このボクらが泣いてしまうこのシーンで、声優(や俳優)はほんとに泣いてしまわないんだろうか」てこと。色々ラジオだったりディスク特典なんかで裏話を聞く限り、ほんとこれは人それぞれらしくて、いわゆる「憑依型」と言われる役者たちの中には、体調にまで影響してしまう人もいるらしいし、そういう演技を毛嫌いする役者も結構いるらしい。黒沢ともよはかなり「憑依型」らしく、宝石の国では体調を壊し、「響け! ユーフォニアム」のあるシーンで手が震えて台本がバタバタして困った、なんて話をしていた。

少なくともあんまりにも「ほんとに泣いちゃう」ばっかりだと収録なんか出来ない気がするので、役者には醒めた目が必要なのだろうなぁ、と想像はしてみるんだけれど、でも一方ではやっぱり「だったらこの芝居はなんなんだ」と。泣いてるようにしか思えないし泣きそうにしか思えないし苦しそうにしか思えない、てわけだ。やっぱ凄まじいスキルなわけだよね、醒めててアレ、なのだから。

まぁ声優に限らんけれど、「プロってすげーな」てことだよな、てことで。


最近やたら長いね。今日はこんくらいにしとく。さすがに疲れた。