読むな Season II Hyper

Senson II にハイパーつけてどーする。

果たしてワタシは読んで欲しいんだろうかそうでないんだろうか。今日も「宝石の国」の話をしつこく。今日はネタバレなしのつもりである、一応。


今の時代、世間で何がどの程度受け容れられているのかを「正確に」知るのって、こんなに難しいことなんだ、と思った、という話。

今朝あげたヤツでピックアップした2つ:

を注意深く比較してみると、興味深い、もしくは「恐ろしい」ことがわかる。後者を見ると「宝石の国」が大評判になっているようにみえるであろう。けれど前者をみると…。魔法使いの嫁キノの旅 -the Beautiful World- the Animated Seriesと較べると、明らかに宝石の国に対する反応は薄い。キノの方は評価は低めだが、それでもユーザレビューは90も寄せられている。いわゆるアニメオタクが集まっていると思われるサイトも間違って訪問しちゃった際に彼らが言っていたことが良くわかる。(いや、君らに評価されなくてほっとしてるわ、なんて「暴言」てる人もいて吹いちゃったけど。)

この2つの興味深い乖離についてはまぁ比較的に簡単に説明は出来そうだ。これはもうはっきりと年齢層で分かれているんではないのか。後者は言うても「テレビガイド」主催のものなので、切り取り方はやはりテレビ的で、従来型視聴しか出来ないようなワタシの年代±10、つまり 35~55 歳くらいの「熱」を反映しているものと思われる。世代のみならずもっと言えば「より普通人」層の熱でもあるだろう。対して前者は「テレビ番組をテレビで観ない世代」を象徴し、かつまた、まぁ好意的な言い方をするなら「地上波で虐げられたがために地上波放映以外のアニメを観るのに慣れているアニメファン」を象徴している、と。

最近やっと「録画視聴率」(タイムシフト視聴率、だっけ?)みたいなものが導入されて活用され始めた、と聞いた。けれども今みた乖離はそれですら掬えない類のものだろう。そういえば最近から「カウントダウンTV」も売り上げ高ランキング形式をやめて、この「視聴熱」に近い指標を使い始めたよね。皆今絶賛苦労中なんだよなぁ、この問題。

「宝石の国」の視聴率(タイムシフト視聴率も込みで)が芳しいのかそうでないのかはワタシには良くわからない(調べてない)んだけれど、お願いだから「視聴率が芳しくない」ことだけで決めないで欲しいなぁ、なんて思うのであった。


同じく「宝石の国」の話で、一個の独立した「論述」かましたろか、と思ったネタだけど、それはやめてここでサラっと済まそうかと。

「男なの? 女なの?」問題に関して。

こんな引っかかりを抱くのは男だと相場が決まっている。答えはもちろん「ジェンダーレス」だが、そんな疑問を投げかけようものなら、世の女性たちには鼻で笑われるに決まっているのである。それでもなお「宝石の国」を検索しようとすると「宝石の国
性別」と皆が検索していることが読み取れるし、海外の批評でフェミニズム・マスキュリズムとセットで語られる傾向が一定数あることから、やはり一言言っておきたくなったのである。

そもそも日本の少女漫画史において、ジェンダーレス表現はこれはもはや「文化」に等しく、これは「空気」である。明確にはっきりとした形で世に出たのは、これは花の24年組(萩尾望都・竹宮惠子・大島弓子)世代に遡るものと思われる。萩尾望都であれば「トーマの心臓」が最もわかりやすい。まぁ「ジェンダーレス」というよりか「BL」と捉えられがちだし、その理解の方が素直だったりもするんだけれど、ワタシはジェンダーレスの一つだと見做している。無論「宝塚歌劇団」があるわけであるから、日本人女性がジェンダーレス表現を享受してきたのは何もこの時代が初めてではない。

そもそも女性が描くジェンダーレスとはなんだろうか。そしてここが非常に(男には)誤解されやすい。身近な女性をこれまで見てきた経験から言えば、彼女達が描くジェンダーレスは、「おとこのこ」がスーパーサイヤ人に憧れるそれと簡単に言ってしまえば同質なのだと思う。男が女に生まれ変わりたいと思うなどと言うのは、LGBT の人々を除けば「エロい妄想」の場合に限られるが、どうやら女は本当に男に生まれ変わりたがり、憧れ、羨む。本当に身近にも多かった。たぶんこれはワタシらのエロい妄想とはまるで異質のものだ(らしい)。女性の闇はどうやら深いが、身体性と精神性が乖離して浮遊しているような、そんな感覚を皆思春期に覚えるらしい。いやぁ、オレらにはないわぁ、そんなの。

すなわち「日本の少女漫画史」におけるジェンダーレス表現は、深層心理にしかないものであったにせよ、どうやらそれは、等しく「変身願望」を表層化したものである。従って「深層心理の(女としての)ワタシの分身」であるところのマンガ表現は、「女性的身体性」を有し、「女性的精神性」を有し、そして女性がそうありたい男性的でなければならない。

「宝石の国」の宝石たちのビジュアルは、この「文化」をそのまま踏襲し、だからあくまでも身体は女性に似、話し方や仕草、どこを切り取ってもあくまでも女性的だが、「女性がなりたい男像」を具現化する。

男ども(ワシもな)が誤解してしまうのは、このもとをただせば「女の闇」から来る精神世界の表現を、ともすれば「主張」ないしは「テーマ」であると読み取ってしまうことである。これまで述べてきた通りこれは「空気」であり「文化」に過ぎないのであるからして、ビジュアルが女性的であることをもってして「フェミニズム」を読み取ってはいけないし、「ジェンダーレス」がテーマであると思ってもいけない。ジェンダーレスではあるけれど、そんなものは別にテーマじゃぁない。

「男がこの文化を楽しむ」のは難しいのであろうか? ワタシは元はといえば「SF 作家(とすら言える)としての萩尾望都」を入り口に少女漫画を知り、受け容れ、「慣れ」てしまいきっているので、まぁどっちかといえば「鼻でふふんと笑う」方の感性にむしろ近かったりもする。ゆえ、もうこういったものを「喰わず嫌い」してた頃の感覚は忘れてしまっている。まぁ「そういうことは置いといて素直に受け容れて浸かっちゃえばええのに」と言うことだわね。そこ気にしてたら多分ダメだわ、この手の作品。