スローテレビ、わたしにもください

英語に本気になるなら TED を忘れてやしないかい、と思った、わけではなくて。

英語リスニング・ヒアリングを磨く、と言われると、最近だと TED がすぐに浮かぶ人は多いだろうし、もちろんアタシも無視してたわけではないけれど、「興味があって繰り返して何度でも聞こうと思えること」かつ「難易度が自分の身の丈に合っている事」の両方をきちんと満足しないと、なかなかすぐには教材には使えないので。

でも「英語の勉強のため」とは無関係に触手が伸びることだって、そりゃああるさ。NHK 放映の TED の本日のテーマは「The world’s most boring television … and why it’s hilariously addictive (世界一退屈なテレビ番組に病みつきになるワケ)」だった。英語勉強関係なく、普通に面白く観た。

というか。これこそが「待ち望んでいるもの」でもあるのです、スローテレビ。

随分前に、「相棒」の米沢監察官が、列車の車窓を何時間も延々流し続けるビデオに浸っているシーンが羨ましかった。心の底から。「旅の疑似体験」と言ってしまえばちょっと「だったら自分で体験しろよ」とでも言いたくもなるし、実際そうである。雪山の美しさは、ハイビジョンテレビでも「知る」ことは出来るが、実際に体感してみないと、本当は何も理解できてはいない。雪山の素晴らしさは、厳しさと辛さや不快さとセットになってはじめてわかるものである。しかしながら都会での日常を暮らしていると、とくに街歩きをするととにかく感じるのは、どこに目線をやってもせわしなく、落ち着かないということなのだ。ましてやテレビ番組などというものは、本質的に過密に作られていて、どこもかしこも現実世界以上にせわしない。テレビ番組はそうそうは癒しを与えてくれない。

ノルウェー国営放送(NRK)のその「スローテレビ」の内容とは、例えば暖炉の灯を実況生中継し続けるだけ、であるとか、ノルウェーの横断鉄道をノーカットで放送するとか、5日半の船旅ノーカット生中継、とかそんな。国民の 120万人が観た、とのことだが、ワタシには全く驚くには当たらない。当然だろうと思う。

日本だとちょっと前であれば、こういったことが実際に可能だったはずなのは、地上波では総合・教育の2局で比較的自由に編成出来る NHK だけだったろうと思う。昔から NHK が最もアナーキーなものを作る傾向が強かったことは、スポンサーのしがらみのないことで説明されることが多いけれど、実際は総合と教育という2局体勢であることも理由として大きいと思う。

けれども地上デジタルになって、どの放送局もサブチャンネルを持てるようになったのだから…、やればいいんじゃないかな? サブチャンネルで、スローテレビ。通常はサブチャンネルは災害時などの非常時対応用なのだろうけれど、もっとサブチャンネルを活用すればいいのに、と、いつも思っている。東京MXくらいよね、常時サブチャンネルを通常の編成に組み込んで別番組仕込んでるのって。テレビ朝日は地上デジタル開始直後に少し実験的にやっていたが、諦めてしまったようだ、最近は全くやってるのをみない。

サブチャンネルの活用、と言えば。もう一つ日々思うことがあって。3.11 以降、NHK こそ毎日震災の反省を踏まえたミニ番組を組むようになった(「明日へ」)が、民放各局にその動きは見られないのがとても残念に思っている。例えば救急医療の基礎知識など、周知徹底が大事なことは日常かなり多いはずで、コマーシャルの一枠を空けてでも流すのがマスメディアの使命なんじゃないのか、と思ったりすることも多いんだけれど、そういうのもサブチャンネルで流しっ放しにしとく手って、あるはずなんだよな、と思ったりするわけ。「常識が薄くなる」話は前半がネタだと思った人、甘いです。あたしゃ本気だよ。そう、人間の「注意」を向けていられる範囲は自分自身が考えるよりもずっとずっと狭くて、それがゆえに「常識が薄まる」のは本当の話。だからこそ「マス」メディアは、薄まっては困る常識・良識の流布に努めて欲しいのだがなぁ、せっかく媒体も充実してるのに、と思うわけだ。

スローテレビ、NHK がやってくんないかなぁ。仕事に追われるサラリーマンが、テレビをつけるだけでほっと出来たり、あるいは仕事中の BGV として使うならば、どこに目線をやっても退屈で窮屈なオフィスが、少しは気が休まる空間になったりしないかしらね。頭脳労働における生産性の鍵となるのは emacs でも dvorak でも IDE でも Python でもなくて、なにはなくても心身が健康であること、このことに勝るものはないのです。そんなちょっと夢みたいに思えるけれども、その気になれば容易に実現可能な、そんなスローテレビ、ワタシにもおくれよ。