連日の読んじゃダメん

昨晩のがかなり書き足りなかった気分になっちゃったのよね。

昨日のシュタゲな話に引きずられて、3ヶ月ぶりくらいに「線形拘束のフェノグラム」を少し見返した。

ので、記憶違いに気付いて、「読むな」ネタに追記を入れるなんて珍しい行動をしてしまった。


てのはまぁいいんだけれど、「線形拘束のフェノグラム」って、なんつーか全体としてとんでもない問題作なのよね、色んな意味で。これについてちょっとだけ。

まず、「本編解釈」からちゃんと整合する、という観点で言えば、これに合格しうるのは紅莉栖シナリオ、まゆりシナリオ、ルカ子シナリオの3つだけ、なわけね。しかもまゆりシナリオは、本編に戻らない完全なるパラレルワールド、かつ、「哀心迷図のバベル」との二律背反。つまり、本編に完全に整合する(というか「しうる」)のは紅莉栖シナリオとルカ子シナリオだけ。

で、これが「シュタゲ世界観」すなわち「異なる世界線の物語」として許容することが出来る、ということだけなら良かったのだけれどもね、これがそうでもない。

シュタゲ話をし始めてから最初の頃に書いたけれど、そもそも D メールを安直に使うシナリオはやはり個人的に非常に抵抗がある。ぬかりなく日付が明示されているので「SERN に捕捉される前の出来事」だから許せるか、というもんではない。だから、岡部シナリオの二つ目(アルパカマンでない方)も釈然としない。そしてミスターブラウンシナリオはもっと納得いかない。こちらは本編解釈からは「まゆりが死んだはずの未来」さえも平然と 「D メールで幸せな未来」にしてしまう。

シュタゲ評価で難しいのが、意図、つまり演出なのか齟齬なのかが見極めにくいこと、なわけね。初見から色々気付いてはいたんだけれど、さっき見返して初めて気付いたことがあった。

気付いたのは「アルパカマン」シナリオ。これ、「まゆり」まわりについての部分については注意深く書かれているようで、矛盾はなさそうなのだけれど、実は鈴羽についても「オカシイ」んだよね。「まゆり」のまわりで起こること、は、初見でも注意深く観てれば不穏なことは少しずつわかるのだけれど、鈴羽描写がヘンなのは今回初めて気付いた。そしてこれが意図したものなのか、「齟齬」なのかの判別が付かない。そう、「タイムマシン」に関して。たった二箇所だけなので見落としてたんだけれど、このシナリオで、タイムマシンが消えている。

「描かれなかった世界線」の話だから、ということでいいといえばいい、とするにも限度があって、「鈴羽が過去へ旅立たなかったのにタイムマシンが消えている」ということは、そこに何かがあったのだ、と考えるしかないのだが、これは「あの夏」から一年後の話なのだから、「タイムマシンだけが消えていて、ラジ館の破壊状況はそのまま」という現状理解はかなり困難、ではないの? 完全な復元はないとしたって、ブルーシートなりの暫定的な措置すら行われていないというのは、かなりヘンな事態だ。あるいはその「何か」が、公的機関によってタイムマシンが回収された、ということなら、これはもう別の物語になってもおかしくないほどの「おおごと」だろう、だからそれはない、てことになって、この解釈は出来ないのも問題で。辛うじて可能な解釈は、「故障して過去に戻れなくなったので、鈴羽自身がタイムマシンを破壊した」くらい。そういうことかなぁ? もしくは、SERN の手によって回収された? これも悲劇的だな…。

本編解釈から考えるなら鈴羽以外も色々おかしくて。当然このシナリオはアルファ世界線の話なのだが、フェイリスは雷ネット覇者、そしてラウンダーによる襲撃があり、その襲撃日が 8月13日、ということは、本編では「鈴羽を引き留めないための D メール」を送る前の世界線であるという解釈が一番順当なのだが、「ラウンダーによる襲撃があった」ということが、このシナリオ理解をかなり困難なものにしてしまう。つまり、「ミスターブラウン、桐生萌郁と(少なくとも見かけ上は)友好的な関係を築いている」ことは、一体どんな意味を持つのか、ということだ。

そして、「ラウンダーによる襲撃があった」結果として紅莉栖が SERN に取り込まれている、ということが描かれているわけなのだから、「だったら岡部と橋田は一体なんで平穏(にみえる)なのか?」がまったくわからない、というわけだ。というか SERN は岡部と橋田も拘束したかったはずだし、そうしないことが極めて不自然。何が起こってる?

そう、この「齟齬」にみえることが、意図あるいは演出にも思えてしまうのが、シュタゲ理解の難しさなんだよね。たとえば橋田については、描かれていないだけで実は SERN に取り込まれているのかもしれない、と解釈もしようと思えば出来る。岡部は「壊れてしまった」から SERN も放置している、と解釈しようと思えば出来る。どちらもかなり救いのない解釈だが、そういうシナリオなのだとしたら、このシナリオのえげつなさは相当なものだ。

もう一つ実際に可能な解釈としては、ほとんど全てが岡部の妄想だった、というもの。事実「少なくともまゆりに関してはそういう話」なので、荒唐無稽な解釈というわけでもない。となれば、鈴羽もそこにはいないのかもしれない。この解釈もなかなかに相当に救いがない。(ただやっぱり紅莉栖との再開直後に会う鈴羽は、岡部妄想によるそれには見えないんだけどね。)

このシナリオについてはもう一つ「救いのない」理解があって、実は「もう一つの岡部シナリオ」に「繋がる」と考えると、途端にとんでもない悲劇になる。つまり、アルパカマンシナリオでタイムリープした結果、「もう一つの岡部シナリオ」に辿り着いたのだとしたら、アルパカマンシナリオが「希望」で終えたのに、表面上は平穏な「もう一つの岡部シナリオ」をどん底に叩き落してしまう。

実際「もう一つの岡部シナリオ」は、岡部がタイムリープ前の記憶をなくしているのだが、この件について未回収のまま終わってしまい、「とてもかわいらしいまゆりの寝顔」で終わる、見かけ上ハッピー(おちゃらけ)なシナリオに見えるのにも関わらず、最後までモヤモヤが消えないシナリオである。けれどもアルパカマンシナリオから繋がってきているのだとしたら、それこそが「記憶を失っていること」の解釈そのものであろうし、であるとするならこれはすなわち、これの結末は要するに「絶望」だ。そう、つまり「まゆりの死が確定しているかもしれない未来」だ。

この「齟齬」にみえるものについてのこの解釈が仮に正しいのだとしたら、作者はかなり性格が悪い。ここまで救いのない話を良くぞ書けるものである。

一応補足しておくと、「もう一つの岡部シナリオ」のダイバージェンスはどうやら「アルファ世界線ではない(ε世界線らしい)」ことを示しているので、本当はアルパカマンシナリオから繋がると解釈することは難しい。その「タイムリープ」で何かが起こらない限り。なので「齟齬」と解釈したほうが素直、ではある。だけれども「岡部がタイムリープのエラーにより記憶を失う」ことが世界線変動の引き金だという解釈がないこともなくて。ただ「ε世界線」はまゆりの死に関しては未知なんだけどね。(「暗黒次元のハイド」(ダイバージェンス 2.615074)がほぼまゆりの死が確定(余命一年以内だっけか)しているので、「アルファ世界線じゃないからまゆりが死なない」ということでもないんだわ。)

あぁ、あと、「初見で色々気付いてた」と言ったけど、そのなかで一番デカいのは無論「なんでタイムリープマシンが健在なのか」ね、これは本当に言い逃れできない「ご都合」。SERN によって襲撃され、このマシンがそのままって、そりゃ SERN は無能過ぎる。なので、これは間違いなく「齟齬」。齟齬でなけりゃやっぱりご都合。よほどの「好意的な解釈による幸運」を想像しない限り、ラボにタイムリープマシンがそのままな理由がない。岡部が SERN から放置されてるのと同じく、かなり無理がある。


「救いがない」「凄惨だ」に関して、無印本編では、やはり電車にはねられてしまうのとゼリーマンが個人的に一番衝撃を受けた。後者の宮野真守の芝居も凄まじい。見かけ上は綯の「復讐」、ミスターブラウンの自殺も「凄惨で救いがない」のだけれど、特にゼリーマンの方は、初見で胸がほんとうに苦しかったし、何度見返しても痛い、というか見返したくない、このシーン。

ゼリーマンのくだりと同じくらい心臓に来たのは、ゼロのゲーム版での「かがり」。この「かがり」理解が出来ると、アニメ版で「謎として残ったこと」の解釈が出来るわけなんだけれど、そして「あぁそういうことだったのね」と思ったけれど、だけれどもさぁ、「いくらなんでもヒドいよ…」と。岡部が「なんで…」とビックリするんだけれど、観ながらワタシもまったくおんなじ声でおんなじことを口走りそうになった。やっぱりこの作者、かなり性格が悪い。主に性的な意味で。


そういえば、今回書いてることに関連して、以前書いたことで、書き足りなかった、と思ったのがあった。

「無印、ゼロ、ゲーム版、テレビアニメ版、スピンオフの全てを通して、無印ゲーム版のルカ子エンドが最も救いがない」と書き、そこで「レスキネンシナリオが見かけ上は唯一のバッドエンド」と言った。これに関して。

つまりこのレスキネンエンド、「岡部が最後に諦めてしまう」という締めくくり方で終わるので、見かけ上本物のバッドエンドなわけだ。

けれども、実際このシナリオでは「真帆とダルが諦めていない」。真帆はああなってしまったので、真帆自身の行動で世界を変えようということにはきっとならないのだろうけれど、少なくとも真帆は岡部を信じている。そして、なによりも「まゆりと鈴羽の死が確定していない」点については実は TRUE エンドとなんら変わらない。二人は行方不明になっただけである。唯一の絶望的な「確定した過去」は、かがりが死んでしまったこと。これ以外はほぼ何一つ確定したものがない。ゆえに、「岡部の今後の選択・行動次第で何もかもが変わりうる」という希望が残っている。

というかね、これってシュタゲの個性なのかもしらんね。「見かけ上ハッピー」にみえるものが実は絶望で、「見かけ上絶望」なのに実は希望。さっきの線形拘束のフェノグラム解釈が正しいかもしれないと思うのも、こういうのがあるからだったりする。


シュタゲ話だけにしとくか迷ったんだけれど、「珍しく雑談ネタに追記した」ことに関連して。

「3年A組」についての「評価が芳しくない」論を見かけて、そのなかの一つのある「主張」がどうにも解せなかったので、それについてだけ。どうにも「エンディングの明るさと本編がマッチしていない」ことに噛み付いてる人々が非常に多いらしい。おそらくこんなん、「ほかの嫌いな部分」を強化してるだけなんだとは思うけれど、ただ「エンディングの明るさと本編がマッチしていない」に関してだけははっきりと「ぼうず、そいつぁ違うぜ」と思ったもんでな。

少なくともワタシにとっては昨晩書いた通り「第一話で感じた通り」にストーリーが展開しているわけだ。最新話とエンディングならマッチしてるだろ? そうじゃない、と言い張るつもりなら、そりゃただの難癖だ。そうじゃなく、第一話のトーンだけみて「マッチしてない」と思ったんなら、要するにこの物語の本質的な部分をまったく汲み取れなかったことを示しているだけ。そんなん、「おれかっけーでしょアピール」なんて貶める言い方したって単にかっこわりぃぜ? もっと言う? 頭悪いぞ。

まぁワタシだって別に全面的に素晴らしい作品だなんて思ってなくて、今期やってる中では残った作品として楽しんでる、という程度なんで、そんなに擁護しなくてもいいんだけどさ、ただ、こういうかっこ悪い論述をみると、ちょっとかわいそうな気分になっちゃうもんでね。

あとね、「語彙が足りない」ことに噛み付いてる人も多い「と言われている」ことになってるみたいなんだけど、そしてこれについて別に否定はしないけれど、なんてーの、ワタシの気分とは全然違うのよね。だって「高校生相手の言葉」なんだよ? なんでそこでこじゃれた名言を期待すんだか。なんか違くね? というか「名言に慣れ過ぎ」てこたぁない? わたしゃ「先に生まれただけの僕」の名言こそ「聞いてられない」もんだったからさ、この語彙のなさはかえって清清しくて好きなんだけど。(というか「否定的意見が多い」と書いてるサイトがいわゆる「ノイジーマイノリティ」に見えた、ワタシには。)


そうそう、「ノイジーマイノリティ」(または「ラウドマイノリティ」)の話なんだけどさ。

言葉の意味やら弊害やらのことは、おそらく皆わかってると思うし、共有されてるとは思うんだよね。だけどね、「どの程度ならマイノリティなのか」という量の問題については、おそらくコンセンサスめいたものはないと思うし、人によって全然考え方が違うと思っている。

ワタシの考え方は結構極端かもしんない。どういうものかというと、「ネットで発言しようとする者全て」。なんだかんだ、今だって「公にネットで発言する」ことそのものの、心的障壁は高いはずなんだよ。だから「発言しようと考える」という行為が「出来る人」と「出来ない人」がいる。無論「出来ない人」が圧倒的多数だ。当たり前だがワタシも「マイノリティ」の一人だ。ノイジーなのかどうかはワタシが決めることじゃなくて、読んでるあなたが決めることだけれどね。

感覚的には「ネットで発言できる一部少数者」の少数っぷりは「全人類のうちの 0.01% 未満」というもの。どんだけ SNS が全盛で、「太郎さんも花子さんも使ってる」ように見えようが、それは「見かけ上」の話。ほとんど大抵の人々が、「出来れば閉じたネットワークで」使おうと望み、ワタシがこうしてやってるように「誰でも」(何ならアルゼンチン人ですら)読めるものを書こうなんて考えない。誰でも読めるような場所には、慎重に書き込むように心がける。少なくとも大人なら。未成年なんだよね、問題は。ここまでの判断能力がないことが多いだろうから。

で、つまりは「ネットで発言しようと出来る人」全てがノイジーマイノリティ候補生である、というのがワタシの主張。だからさ、「SNS でバズってる!」なんてのがどんだけ信用できないか、て発想にもつながる、てことよ。

ただし。これは「今」の話。こんなことが言えるのも、今の40代くらいより上の層が生きているから、というだけが主な理由。たぶん 20年後は全然違ってると思う。


うーん、いつものごとく、何か書き忘れてる気がするけれど、まぁいいや。今日はこれまで。