今日も読んじゃダメ話

いつものだよいつもの、シュタゲな。

サイエンスに対する考え方について、なんだけれど、実際紅莉栖よりも岡部に共感する人がかなり多いんじゃないのかなと思っている。

色々な版をあちこち行き来してるので、もはや対応する話数がどこなのか特定するのが自分的に難しくなりつつあるんだけれど、ゲーム版無印での、紅莉栖が最初に「電話レンジ(仮)」によるメールの過去送信を目にして「ありえないっ」として飛び出していった後にコインランドリーで岡部とやりとりするとこね、あそこ。ここで岡部と紅莉栖のスタンスの違いがはっきりやりとりされている。あと@チャンネル内でも同じように「栗ご飯とカメハメ波 vs 鳳凰院凶真」の形でかなり似た「喧嘩」がある。

コインランドリーのくだりだと、岡部は「観測されていないものは仮説に過ぎん」と言い、それに対して紅莉栖は「仮説を積み上げることで真実となり、それこそがサイエンスだ」と言うわけだ。このね、紅莉栖派が「科学を志すものの主流派の考え方である」てのはさ、ワタシはちげーと思うんだわ。

もとより「人それぞれ」ではあるわけよ。科学者だって色々なはずなわけ。そうなんだけれど、ただ、何かエンターテインメント作品で「科学者が描かれると」、どうも紅莉栖的指向こそが「当然のごとくマジョリティである」となりがちなのよね。けど事実は多分そうじゃないよ。

実世界で誰を思い出せばいいかというと、大槻義彦である。アレは相当極端なので、わかりやすいといえばわかりやすいし、だからこそわかりにくいのだが、「当然のごとくマジョリティである」派の実は筆頭なんだよね、彼。何かっつーと、「あらゆる事象は説明されなければならないし、説明されなければそれは事実ではない」というのが要するに彼らが言い続けることなわけ。

けどね、本質的にはこの態度は、岡部が言うところの「矛盾」以前の問題として、「逆」なんだわ。「事実」もしくは「事実として認識出来そうなもの」を「説明」するのが「理論」「仮説」「科学」なのであって、大槻義彦がやることは大抵「事実に目を瞑る仮説を構築し、仮説から導出される「事実と似たもの」を「絶対的真実」として譲らない」になっている。要するに、「事実」からスタートしてない。ので「事実」に戻らない。

紅莉栖論は実際大槻教授のスタンスと実はほとんど変わらない。大槻教授ほどには「バカにみえない」描写だからわかりにくいけれど、実際はまったく同質。

で、紅莉栖は反論するわけだ。「仮説を積み上げることで現代科学は発展してきたのだ!」。ちげって。「事実を説明出来る仮説を積み上げて」なんだよ、あくまでも。相対性理論は違うだろって? そこだよそこ。どうにもアインシュタインが「とてつもない誰も考えも付かない大飛躍で仮説を構築した」と思われてるんだね、だからこそ紅莉栖論があたかも説得力があるかのように思われてしまうんだけれど、アインシュタインであれシュレディンガーであれ誰であれ、「(観測)事実を説明出来る」ことから着想していることについては、なんら変わらないんだってば。そして最初の話、「多くの科学者もちゃんとそう思っている」。

実際にアカデミックな世界にいたのは所詮大学院までのワタシには、本当のところはよくわからないけれど、ただ、シュタゲの紅莉栖や、ほかの作品で描かれる「標準的科学者」の標準は、そう標準ではないとワタシは思っているし、そう思いたい。案外マイノリティなのではないのかなとすら思う。(つまり岡部的な考え方の方がむしろ科学者的なのじゃないのか、てこと。)

ただちょっとシュタゲって珍しい構造のような気はする。紅莉栖ってのはさ、「キャラ人気投票1位」になるようなキャラであり、おそらく作り手としても「一番手ヒロイン」として描こうとしたんだと思う。そして「紅莉栖的標準的科学者像」てね、普通の作品だと「ヒーロー/ヒロインに対峙する」指向なわけよ。「突飛で驚くべき」なヒーロー、ヒロイン像、てわけでしょう、なのでそういった「紅莉栖的普通像」は、「ダメな科学者」像に当てはめられる。ほかの作品でわかりやすいのだと「ガリレオ」なんかがそうでしょ。そういう意味で、やっぱりこの作品の主人公は岡部なんだなぁ、てことだよね、きっと。


同じシーン内で「オカルト」の話もされてる。この話もちょっとしておきたい。

岡部は紅莉栖の「オカルトかよ」に対して、紅莉栖の前の発言との矛盾を指摘することで攻めようとするんだけれど、ワタシは岡部と同じ指向を持ちつつも別の考えも持っているのでね。

話としては二つ。

一つ目は「オカルトがなぜ信用できないのか」について。つまり岡部同様に「軽視は出来ない」とわかった上で、それでもなお、の話ね、まさしく「眉にツバをつけて」考えねばならん、て話。

あまりこの論法をしてる人がいるのを見たことがないので、きっと多くの人が気付いていないんだと思うけれど、「オカルト」の一番の問題は、実は「それがエンターテインメントとして成立している」ということである。つまり「ウソが商品として成立する」分野なんだよ。これって別に最近に始まったことじゃなくて、日本なら確実に江戸時代には確立していた分野だし、なんなら実際は奈良時代にだって遡れる。まぁ「江戸時代」と「奈良時代」だとエンターテインメント性の性格は結構違うんだけどさ、とにかく「売り物」になるものだったわけ。

要するに、サイエンスとして立脚すべき「観測事実」そのものについて、オカルトにカテゴライズされる多くのものたちが「ウソが許される」ものだということ。たとえば幽霊。これを見ることが出来る人が実際にいるんだとして、だとしてもワタシにはそれが出来ないので、「事実と認識することは出来ない」、のならば、「見ることが出来る人」の言い分をどう信じることが出来るか、という話に帰結するわけだけれど、そこに「たぶん99%の確率でウソが含まれる」てことよ。しかもそれが「許される」。

もう一つの話は、「そもそもオカルトとサイエンスの差は何か」の話。これは話はもっと簡単かもしれない。たぶん「再現可能性」に尽きるんだと思う。

「地震雲」の話を例にしたい。これはワタシの定義からは「オカルト」なんだけれど、知っておいて欲しいのは、「多くの地震学者が、必ずしも地震雲の存在を否定はしていない」ということ。そしてワタシも体験上「地震雲で地震を言い当てた」ことが何度もある。つまり「存在はしているし、否定している地震学者ばかりではない」。(実際ワタシの専攻が地球物理だったので、ここら辺の感覚については間違ってないよ。)

ではこれのどこが「オカルト」なのかというと、要するに「地震予知」の冠を被った場合である。

実際「予知」に繋げるためには、そもそもが「どんなものが地震雲なのか」という特定が必要だが、当然そんなもん誰にも出来てないし、「当てた」経験が何度もあるワタシだって、説明できない。そして、「観測」の問題がある。本当にこれがあるのだとすれば、おそらくそれは「上空からは識別出来ないスケール」で起こる事象なのだ。あるいは「普通の雲との区別が機械判定では難しい」ものだろう。もとより「雲」の形状なんてのはカオティックな振る舞いでもって決まるものであって、よっぽどほかと容易に識別可能な個性がなければいけないが、たとえば「山岳波」とでさえ簡単に区別出来ないのはわかりきっている。

仮に「上空からは識別出来るスケール」だったり、あるいは何か新しい観測技術が発展したとして、この場合に「蓄積さえあれば機械学習(特にディープラーニング)で」特定、までは実現可能性は「ないとは言えない」。しかし問題の本質は「そこから先」にこそある。つまり「特定出来たとしたら、それが「何を意味する?」」。情報の断片は「そのものでは役に立たない」。「特定出来た地震雲」から「予知に使える情報」を引き出す必要がある。

観測に関してはもう一つ、「そもそもの天候に依存する」。わかりやすい話で言えば、「台風と地震雲」の組み合わせを考えればいい。わかるはずがないし、たぶんこの場合は地震雲そのものが発生しないだろう。

「再現可能性」ということは、地球物理が扱うようなサイエンスの場合は「実用性」に直結するんだけれど、すなわち地震雲「による地震予知」ってね、「おそらく今後未来永劫に渡って実用性を持たせるのはムリ」なわけ。実際「地震雲発生⇒いつ? 震源は? 規模は?」が実用性のある範囲で特定出来るようになるとは思わない。出来ても『3日程度以内に、半径500km 以内に、そこそこ大きめな地震が、起きる、「かもしれないし起こらないかもしれない」』マデ。これはもう「地震予知」が目指す精度とはかけ離れてるんだよね。

「目指す理想精度」と「現実に目指せる精度」の乖離の問題はあるが、少なくとも「注意喚起が必要かどうか」だけは求められるだろう、てのはわかるね? 地震雲の場合、おそらくそこさえ満足出来ない。というか、「地震の前兆現象としての観測可能な事実」としての「使い勝手」の問題とも言える。つまり、「たとえ可能だとしても」地震雲が最善でないことがはっきりしている、という言い方の方が正しいかもしれん。情報として使いにくいわけだよ。それよりは「歪み計の観測」だとかのもっと地道で確実な使いやすい観測がある、てことよ。

というわけで「地震雲で地震予知」はもうオカルト以外の何者でもない、んだけれど、「存在は否定しない」と言った通りで、実際「当たる」よ、結構。なので、「心の準備」の足しくらいにはなる。もう一つ、最近の、特に都会では難しいんだけれど、大きな地震の前にはミミズが大量に道路で死んでたりするので、その二つがあればまず確実に。ので、生活の足しにするくらいのものではあるよ。

それに、「地震雲の解明」そのものが実際「まったく検討されていない」なんてことはなくて、実際トライしようとする学者はいるし、「地震雲の発生を説明出来る」何かを探そうとする学者もいる。おそらく「磁場」、あるいは「重力場」かもしれないが、いずれにしてもこれがあるとするならそのメカニズムは「~場の異常」なわけで、なので、地震学の分野でも磁場を専門にする学者は「いずれはこれで地震雲を説明出来るかもしれない」と考える者もいる。(同輩の磁気屋さんが実際そうだった。)


たまたまゲーム版だと同じ章にあたる話なのでついでに。「あれが人工衛星の墜落のハズがない」の話。

「頭の良い人間だけがアレが人工衛星の墜落のはずがないと気付く」てのがさ、ここまで褒めてるシュタゲだけれど「やっぱそうなのね」。つまりさ、「さすが天才ならでは、そんなことがわかるナンテっ、どどーん」てのが娯楽作品における「出来るヒトの描き方」であって、これに説得力がどの程度あるかが作品評価にもかなり影響するわけだけれど、シュタゲも結構これについてはやらかしててな。

岡部も確か「人工衛星が完全な形で残っているなんて」という違和感を独白部分で言ってた気がするけれど、紅莉栖は「大気圏内で燃え尽きることを計算して落とされるハズ」という違和感で説明してる。

ヲィ。

当たり前だけどさ、こんなん「誰が考えても」オカシイのはわかるはずだぞ。少なくとも理系なら。つまり、たとえば「大人の理系」が人口の 1/4 を占めるとして、そのうちの「標準的」な素養があるのが 1/4 だとすると、全人口の16人に一人くらいは「あれが人工衛星の墜落のハズがあるわけがない」と判断出来るハズだぞ。「燃え尽きる」以前の問題だって。「衝突された相手」のことをまったく語ってないのが異常。数センチ単位の隕石が落下しただけで、木造家屋の屋根を突き破るんだぞ? メートル単位の隕石で半径 km 単位のクレーターを作るんだぞ? てな感覚を「常識的に身に着けてない」方が、かえって難しいんじゃないのかね、とワタシは思うんだけれど。

つまり「紅莉栖と岡部は出来るヒトなのでひっそりオカシイと気付いている」わきゃぁなくて、あの状況ならそれこそ「バカな評論家が大喜びで」まくしたててるハズだよ。


「さすが天才ならでは、そんなことがわかるナンテっ、どどーん」に関して、シュタゲではもっと大きなものがある。もちろん「amadeus」の話。

作品内ではあたかも「そんな発想をするなんて天才」に描かれる。いや、実際は「発想は出来ても方式が…」と真帆がいい、その方式に関して紅莉栖が解を導いて、「どどーん」て描かれてはいるのだけれど、ただね、と。

この「amadeus」に関しては本当に描き方が色々おかしくて。実際「これが実現できたとしたら」、これは本当に「人工知能の当座のゴール」だよ。なのに「忘却が実現できてないからまだまだ実用段階ではない」という。ヲーイ。

作品内での表現で「天才紅莉栖でしか思いつかないこと」とされていることは、実際には「妄想好きなら誰でも思いつくこと」、つまり真帆の言う「発想だけなら誰でも出来る」ことだったりする。確かに「脳科学的にそれなりに正しい知識」を持った上での「発想」は誰にでも出来るわけではないけれど、むしろ「天才ならでは」というよりは、「SF 好き」ほど発想しそうな内容だ。

なんでもそうなんだけれど、「たった一人の天才によるたった一つのブレイクスルー」で発展してきた科学・技術なんか一つとして存在してない。実際は「何億もの凡人による小さなブレイクスルーの積み重ねと、ごく少数(でも一人ではない)の天才による「大きくて少ないブレイクスルー」」によって進化してきたのである。なんてことはさぁ、「自動車」の進化の歴史をちょっと眺めてみりゃわかると思うぞ。なので、そうしたたった一つのブレイクスルーでもって「天才紅莉栖」を描こうとするのはやはりファンタジーに過ぎる。

「amadeus」そのものについて言えば、言った通り発想に関して「妄想好きなら誰でも思いつく」のだとするならば、今、現時点で、just now で「amadeus」が実在してないのは何故なのか。それは「天才紅莉栖がいないから」なのではない。当たり前だが「実現可能性」を容易に突破できない領域が多いからだ。

たとえばさ、あの「3D モデル」、だよ。実はあそこから既にかなり難しい。作品内で「プロセスと構造が同じ」というふうに軽~く言っているけれど、その「発想は簡単な」それそのものこそが技術的に既に難しいわけで、つまりこの「3D モデル」、「あのさー、脳と筋肉への指令も込みでマッピング出来たってことよね? どうやって?」と、ちょっと考えただけで「これだけでも凄まじい」ことがわかる。現時点では「とてもリアル風味」な 3D CG としてはおそらく saya が最高峰で、当然その動きの指令は「従来型伝統的プログラム」によってしか行えない。脳機能のエミュレーションとマッピングするのに、どれだけ大変なのかは、想像すら出来ない。

同じように、作品内ではあたかも「デジタル化を発想するなんてさすが天才紅莉栖」な言いぶりだけれど、当たり前だが「んなもん誰でも思いつく」。実際あの論文が本当に書かれるとして、成果があるならば、それは「全マッピング」という作業の成功に対する栄誉として認められるのであって、決して「発想に対して」じゃぁない。要するに「脳科学者が普通に抱く夢」だっての、あれは。ただ実際にあれが成果になれば、本当に作品のとおりの世界が開けると思うし、凄いのはたぶん確かだろうけどね。

てなわけで、シュタゲはかなり詳細に検討されている作品だけれど、やっぱしそこは娯楽作品。「さすが天才!」に共感出来ない構造についてはやっぱり共通。まぁ SF 作品の宿命だよなとは思う。


話は大きく変わる。「まゆりの責務」の話。

これはネタバレてことになるのかなぁ? もう散々してるからいいよね? えと…、要するに「まゆりが何故アルファ世界線で死ななければならないのか」を「責務・役割」の点から考えた場合これは、「岡部とラボ」を結びつけるマスターピースだから、なわけね、これはわかる? わかるよね、観た人なら。

岡部はまゆりとの結び付きがなかったら、少なくともラボを「続けてない」し、なんなら「設立してない」可能性すらある。線形拘束のフェノグラム(の「ミスターブラウン」シナリオ)が一番はっきり言葉で説明してるが、無印本編でも「まゆりが最初にラボの門を叩いた」こと、特にゲーム版ではそのことに岡部が「救いだ」と感じて感謝し、「まゆりはラボにとって役立たずだが追い出すつもりはない」とはっきり(独白部分で)語り、同じく無印ゲーム版の終盤に「まゆりの役割」を同じく独白部分で語っている。

無印ゲーム版の終盤に語られる「まゆりの役割」は確か「人間関係における緩衝材」としての役割についてだったと思う。これについては視聴者(プレイヤー)も即座に納得できる説明だろう。ただ実際それだけじゃないよな、と。

「ラボを「続けてない」し、なんなら「設立してない」」という、岡部にとってのモチベーションの問題、そして「集まった人間に作用する緩衝材」であるのとともに、実際のところは「岡部 + まゆり」という組み合わせって、なかなかの「求心力」だと思うんだよね。そもそも「岡部だけ」ならきっとあそこまで人が集まらないし、集まってもすぐに離れていくと思う。そう、「まゆりがそばにいる岡部」に魅力を感じて集まってくるんだよね、多分。(なので「ギャルゲー」要素の強いシュタゲが「ギャルゲー」的に「女だらけ」になる理由付けにはなったりする、「まゆり機能」は。そりゃあのまゆりなら女の子が寄り付くわい。)

で。このさ、「第三者からみて、まゆりはちゃんと役に立っている」ことに関しては、視聴者(プレイヤー)は普通にちゃんと観てればわかる、のだけれど、ただこれが「当事者」になったらどうか、て話。

実際作品でもまゆりは「自分が役立たず」であることを気にしているし、岡部含め誰も「役に立っている」とまゆりを納得させる行動をとらない。これって、「なんでだ」という感想よりか、「よくみる光景だ」と思わん?

「まゆり的な実在の身近な存在」が、いたような気がするんだけれど、いざ思い出そうとすると誰なのか特定できなくてちょっと困るんだけれど、「いた」として話をすることにする。確かにいたと思うんだよ、なので「そのときに思っていた」(はずの)ことを。

まずね、その「役立たずな本当は役に立っている当人」に、あなた、なんと言う? 「キミはいるだけでいいんだ」が「本当のこと」だとして、「キミはいるだけでいいんだ」そのままの言葉をぶつけてその当人に納得してもらえると思う? 実際作品内でまゆりはそれで納得してないし、実世界で「まゆり的なその人」もきっと納得しない。何か「形になること」でないと役に立っている実感なんて持てないだろうから、これは当然の感情だろうと思う。

次に、「あなたはそう思ってるとしても」、それ、皆と共有出来ると思う? まずこの手のことって「こっぱずかしい」類の話なので、そういったことをちゃんと言う機会も勇気もなかなかない、というのも大前提だけれど、「言ったとしても」わかってもらえない人種がいるのは理解出来る? 経験的には「わかってもらえる」率の方がやや高めだけど、特に「血気盛んな若者」ほど「形になるお役立ち」に固執しがちなので、「役に立たないのでなんでいるんだ?」とまで言う人々ってのは確実に一定数いる。

つまり「まゆり的役割」って、「直接的評価」「視覚可能な何か」でないのが問題で、本質的には実は「もっとも大事なもの」だったりもするのだけれど、この「非常にわかりにくい役割・効果」については、実はコンピュータサイエンスの著述で何度か指摘されてきたことだったりする。ちょっと記憶曖昧だが、トム・デマルコの著述だったと思う。「なぜいるのかわからない」重要な人、について。

そういった難しい話に持っていかずとも、「ムードメーカー」というわかりやすい言葉でもいい。ただその「わかりやすさ」とは裏腹に、その効果と重要性について「ちゃんと実感を持って理解出来ている人」というのはそう多くはなくて、だからこそ「ムードメーカー当人」にも説明しづらいし、周りの人間を納得させるのも難しい。

そもそも「ソフトウェアエンジニア」なんてのは「頭脳労働」なわけ。だからこそ「心」の問題が「品質」に直結するんだよ、これってすんげー大事なんだけれど、ただトム・デマルコのような人がどれだけ「いいこと」を叫んだところで、やっぱり「浸透しない」んだよね。なんせわかりずらいからね。

なんてことをさ、これ、実はシュタゲのアニメを初めて観た一周目から既に思いながら観てた。


シュタゲ以外の話で締めようかな。

まずは「今期アニメ」の話。

「一個もない」と言ったけど、一個だけあった。ただし 23 分ものじゃなくて、えーっとこれは正味10分かな? 「上野さんは不器用」。これだけちゃんと毎回観てるし、ちゃんと結構楽しい。(ちなみに「ナレーション」が井上和彦なのもポイント高し。)

一応「臨死!!江古田ちゃん」も観てるけれど、なんというかこの手の変化球には飽きてるというかさ、観れないことはないけれど、て感じで心底楽しんではいない。なんにせよ不作。

あと、かなりこれまでの話とかけ離れた話題だけど、ついさっきまで観てたので。「池の水 ぜんぶ抜く」の話。

大阪のどこかの池を清掃したその後、の話がとても気になった。つまり、淳、田中たちテレ東部隊が池の水を抜き、ゴミ清掃をしたその後。「それでもゴミを捨てる人が後を絶たない」ということになって、とても悲しいことなんだけれど、こういうの観るといつも思うんだよね。「届けたい言葉は、一番届けたい相手にほど届かない」。そもそも「届く相手」は「届かせなくても」池にゴミを捨てたりなんかしないわけだ。そうなんだけれど、これってさ、「テレビなんだから」何か手はありそうだよな、なんてことを思ったの。

例えばね、旅番組系だとさ、「記念のステッカー」なんか配ったりするわけじゃない。これって、配られた相手にとっては、たとえば店をやってる人なら「宣伝効果」になるわけだ。テレビの力ってのはやっぱ結構あるわけで、そしてこの「ステッカー」って、「リアルタイムで観なかった人」に対する影響も持つ、てのは理解出来る? そう、先の大阪の池にさぁ、「「池の水ぜんぶ抜く」で清掃した池です!」とそれこそ写真つきの看板でも置いたら、結構効果あるんじゃないのかな、って。この番組、既に相当にネームバリューあると思うんだよね。だから結構即効性があったりしないかしらと。(番組では MC とゲストが「番組観て欲しいなぁ」と言ってた。そう、「観てないと効かない」のは限界があるんだよね。)


えーっと今日はおしまい、以上。いつも「あー、書き忘れたぁ」があって、今日も多分あるとは思うけど、例によってキリないしてことで。