いつものと言えばいつものだが、完全にいつものでもない。
今クール、そもそもなんで「アニメ視聴習慣を久々に」なんて思ったのか、について、なんとなく忘れていたのだが、思い出したのだ、って話。
そもそもテレビっ子なのであって、長寿番組にあたるようなバラエティも当然見てる。鉄腕 DASH、もやさま、とか、ダウンタウンなうとかあるいは関ジャムとか、ぶらタモリ、家族に乾杯、などなど色々。で、「季節モノ」として、ドラマだアニメだ、となるわけなんだけれど。
でその元から毎週楽しみに観てるバラエティだとか、ドラマが厚いクールはね、あんまりアニメ欲は沸かないんだよね。けど今クールってさ、結局外れクールなんだよね、ドラマは。全然盛り上がれない。
でそういう隙間クールでは空き時間つぶしに何を観るかと言えば、ハードディスクレコーダに残してある昔のヤツとか、DVD/BD を買ったほどのお気に入りを観る、てことになるんだけど、そのまさに最良だったのが「夏目友人帳」だったのね。ほんと観るもんないときは繰り返し観てた。で観てるうちに、「新しいアニメネタも欲しいなぁ」と思い始め、そして今クールの「片っ端から録画してみた」という行動に繋がった。(今思い返せば、だけど。)
その「夏目友人帳」の話。
宝石の国絡みでいろんな評価サイトを訪問してる流れで、夏目友人帳の「海外の反応」も見て、面白い(というか残念な)見方があることを知った。
つまり、海外のある特定の人々にとって、「祓い屋関連」がプロットの「本筋」で、それ以外の話は「引き伸ばしのためにダラダラやるためのネタ」なんですと。無論「普通の感性を持ったファン」にとってはまさしく愚の骨頂極まりない話、でしょ?
元々原作は月刊誌に一話完結の読みきりスタイルの隔月連載なのだ、というバックボーンを知りたまえ、とは言わない。けど少なくとも「「祓い屋関連」がプロットの「本筋」なのだ」と誤解出来るほどに視聴を続けてるんなら、このファンタジーが「心の交流を描く短編集」というスタイルなことくらい、すぐにわかるはず…、と思うんだけどねぇ。なんかこういう誤解って、カルチャーショックだ。こういうのってさぁ、「文化」(や民族)の問題なん? シンプルに、視聴態度が幼稚なだけなんじゃないのか、と思う。
ワタシが夏目友人帳を視聴するようになったのは、多分「続・夏目友人帳」の途中からだ。こういう途中参加でも一気に没入出来るのはまさに「そういう作り」をしているからだ。そもそも少なくとも各シーズンの初回は必ず「小さい頃から時々変なものを見た。他の人には見えないらしいそれはおそらく 妖怪と呼ばれるものの類」という夏目貴志のモノローグで始まり、初回以外も比較的多く説明されるために、すぐに世界に入れる。
「一話完結型が多い」という作りなので、途中参加でも楽しめる、のはもちろんそうなのだが、さすがに「何がどうなってニャンコ先生と一緒に行動しとるのだ?」みたいなことは、あるいは「なぜこのキャラと仲がいい?」とかそういったことは、そこはちゃんとストーリーなので、後追いで遡らないとわからない。だから「初回だけは観たい」と当時思ってた。そして今は DVD (申し訳ないけど中古)を買って、結果全シーズン観た。そうして全話「ワタシは」観たけれど、人に薦めるんであれば、「ファーストシーズンだけはどうにか買うなりしてでも観るといい、でもそれ以外は順不同で楽しんでも全然おっけー」と言う。どこぞの誰かが言うような「本筋」なんかあまりないんだから。(無論続きものなんだからストーリーはあるけど、途中を知らなくても大概のことは想像で補える。)
夏目友人帳の話を続ける。
多くの登場キャラの中でも特に柊(ひいらぎ)がお気に入り:
結構巷でも人気があるキャラ。画像キャプチャで「かわいい」が見えてる通り、そう、なんかカワイイのだ。
静止画だけじゃあまりわからんと思うけど、そもそも古風な喋り方と声がマッチしているし、夏目友人帳に登場する妖(あやかし)は、どういうわけか面をつけている妖怪ほどかわいい。子キツネよりもだ。なんでだろうねぇ、毎度不思議なんだけど、緑川さんの作風、なのかもな。
同じく夏目友人帳に関係する話ではあるけれど。
毎話というわけではないものの、基本「夏目友人帳」って、チープに紹介するなら「泣けるぜっ」て作品なわけですよ。けどね、露骨な「お涙頂戴」な過剰演出なんか一個もないからさ、こういうのを観るたびに、「~よ、夏目を見習えや」と思ったりする。今クールだったら「クジラの子らは砂上に歌う」なんかがそう。○の△の□を煎じて▽せたい。
まぁこういう「ちゃんと泣かせてくれる」ものなんか夏目友人帳に限ったものではないけれど、「ダメなお涙頂戴型」を観るたんびに、なんでこうまで差が開くんだろうか、と思うよ、ほんと。
ライムスターの佐々木士郎…もとい、宇多丸はこういうダメ演出をいつも「べろべろばー」と表現してる。例えばコメディ演出で「舌を出してみせる」ことで「はい、ここ笑うとこ」てヤツね。
ワタシは宇多丸ほどの左脳理解の深い視聴態度を取ることはほとんどないので、彼の批評についていつでも賛同出来るわけではないけれど、まず自分の理解の及ばないところに突っ込んだ深さが面白いので、たまに参考にしてる。ブレードランナー2049 はちょっと興味あったが、彼の批評でだいたいどうしようかわかった。いずれ観ようと思う。
「批評」「評価」「評論」に対するワタシの態度を、ちゃんとした文章で表明したこと、そういえばなかったような気がする。ちらほらはちっちゃくは言ってるんだけどね。たとえばこのサイトのソーシャルボタン(はてぶ、twitter、Facebook)の話をしたときに。「人がいいと言ったからいいと思う気分って良くわかんない」みたいな。(という理由でソーシャルボタンを頭でなくお尻につけている。「読んだからこそいいとか悪いとか評価するんでしょ」って態度ね。)
数日前に「イタい子供だった」話は書いたけれど、そのイタかった子供時代のワタシの(イタい)持論があって。それが「評論家なんて職業、意味わからん」てヤツな。まぁ好きなものを貶されたりするわけだからさ、子供ならひょっとしたら誰しも心当たりがあったりするのかも。今でもこんなこと言ってりゃ「中二病」「高二病」そのものだ、今はまったくそんなことはないどころか、今ではその当時とは真逆の意見かもしれん。
当時というか「当時よりちょっと後」に気付いたのがまさに「佐々木士郎」との出会いだったりする。というか正確に言えば「Black Music Review」(や、ロッキンオン)などの音楽雑誌の評論に触れるようになってから。ここで「評論家と好みが合うかどうかで決める」という技を身に着けた。ワタシの場合。つまり、最初は好みが合うかどうかがわからないので、聴いてみるわけである。そしてから批評を読む。そうすると、自分の好みにその批評家が合うか合わないかがわかる。あとは「この批評家が言うなら」という選び方が出来るようになる。要するに結局は「自分の好み」が先立つのよね。これに気付いてから、評論家という職業を「許せる」ようになった。(オレ好みフィルター代議士、という職業なのだ、すなわち。)
この「理解」が第一段階だとして、現時点ではこれよりもっと違うことも考えるようになったのはそう、「アマチュア批評が大量に世に溢れるようになったから」だ。無論ワタシが撒き散らしてるこのブログもその一つである。(公平を期すために言えば、「アマチュア批評」そのものは、別に昔から雑誌ではあったわけで、わかりやすいのは週刊漫画雑誌の人気投票だ。仕組みそのものはだから今に始まったことではない。)
そう、昔と比較して一番変わったのは、「他人の評判(口コミ)への過度な依存」に関してだ。個人的にはこれは一番カッコ悪い態度だと思っているので、自分はそうしたくはないと思ってはいるものの、そもそも「便利」であることは確かだと思うので、気分は相当ビミョーだ。その便利な口コミがなかったら出会えなかったかもしれないもの、なんて、いくつかは思い当たるでしょ、誰だって。けどね、本当に幸せな時間の使い方てのはさ、「いいものダメなもの何でも試して、たまにいいものに巡り合う」ということであって、そうするからこそ豊かな心を得られる、と思うわけで、「人がいいと言ってくれたものだけ観る」てのはさ、貧しい、というか、「そんなに時間ないの?」と哀れに思っちゃう。時間がないなりに楽しみたいから口コミを利用するのは「合理的」とは思うけれど、ワタシはそんなことより「偶然の出会い」の方が幸せな気分になれるので、時間がない場合でもあまりこの合理主義には共感出来ない。
そんなわけで、アニメに関しては海外だと MAL、日本だとアマゾンランキング(「アマラン」なんて言うみたいね)あたりを、「オススメランキング」として活用する傾向が高いらしい、と知って、ちょっと残念な気分にもなるというものである。そもそも「2017年秋アニメおすすめ」なんてのが人気記事になるらしいのも、たぶん「合理主義」に基くものなのであろう。確かに今期のワタシみたいに「とりあえず片っ端から録画してみる」なんてのならまだしも、「片っ端から番組表を調べてそこから公式サイトを訪れて面白そうかどうかを決める」なんてのはよっぽど暇な人なのは確かだ。そうまですべきだとかしたいとかって話ではなくて、ワタシの場合は忙しいときなら単に「出会いに任せる」だけの話。観る前にアレコレ決めようとはまず考えない。MAL に興味を持ったのは、「好きなものは評価されて欲しい」という、ごく普通のファン心理に基くものであって、決して「観たいものを決める」ためではなかったし、今後もそういう使い方はしない。
「持論」のちょっと続きの話もしたい。「イタい子供」だった頃から今でも変わらない持論。それは、「野球ファンでないアンチ巨人は信用しない」というもの。失礼だろ、とまずは思うんだね。アンチ巨人言いたいならまず野球ファンになりなさいよ。と思うわけ。MAL やアマランで Yahoo! オススメランキングやらで視聴するかどうかを決める姿勢にすげー似てると思うんだよね。なぜなら「野球ファンでないアンチ巨人」てさ、「皆がそう言うから」なんだよ、ほとんどの場合。(まぁそうでない人もいるのは認めるけど。実際アンチ巨人については、「アンチ渡邉恒雄」から来るものが多いため、そういうことなら気分はわかったりもするわけで。)
「偶然の出会いが好き」ということについてはこれは、ワタシが本や DVD/BD を買う姿勢がまさにそうなのよね。これは前にも書いたな。「オンラインショッピングが出来ないヒト」みたいなことを。つまりさ、「オススメられて買う」のが鬱陶しいわけよ。そうではなくてさ、自分の目で見て、好きそうかどうかを直感で決めて、買ってみて、自分で評価すればいいんであって、口コミや評論はワタシにとっては「答え合わせ」(いわゆる「共感確認」てやつ)に過ぎないんだよね。もちろん評論を予め利用しないかと言えばそんなことはないけれど、そういうのを利用したいのは「未知の分野」に関するものがほとんどだな、ワタシの場合は。(医療系なんか普通の書籍の何倍もする値段なので、簡単に手が出ないよね、そういうのとか。)
みたいなことを「宇多丸も言ってるぜ」。(いわゆるこれが「権威への依存」 )