本日の連想ゲーム

読まんでいいよ、他愛もないはなし。

昨晩は「相棒 Season 14」。シュレディンガーの猫をモチーフにした話。

ふ。つまらん。ここで言った通り、今シーズン相棒は、やはり壊れている。ところでリンク先記事を書いたのは 12 月 18 日。なんとはなしに相棒ネタ検索してたら、ワタシの投稿の 2 日前に全く同趣旨のことを言ってる本職「テレビ誌ライター」がいたことに気付く。皆感じることは同じだ。

なお、昨晩の相棒の「何がつまらん」と感じたのかは、パラレルワールドの描き方の手法、可能性の一つ世界を一つ終えて基点時刻に戻って繰り返す、というやつ、これが「ほーら斬新でしょ」感満載な、なんとも昭和な香りがしたこと、だったかも。目新しくはないもんなぁ。たとえば萩尾望都の「銀の三角」とかね。こういうの、勢いがあるときにやれば割とスルー出来るんだけど、評価がダダ下りしてるときにやったらダメってことだろう。必死感だけが先走って視聴者が落ち着いてみれない。

相棒がワタシがそれなりには好きだったのは「とても気に入ってるところが何かある」からなんかではなくて、どっちかといえば「印籠的マンネリズム」がまさしく「惰性で観るのに相応し」かったから。疲れないで観れるでしょう。それでも10話に一回くらいは「名作」と言ってもいいくらいの良い本もあって、だからこそ「それなりに目が離せない」かったのだ。いい意味でも悪い意味でも「THE テレビ朝日」感満載なのが、相棒なのであった。そしてそんな程度の「好き」でしかなかったのでも今シーズン相棒がなぜに「腹立たしいほどに劣化したと感じるのか」は、やはり脚本なのだろう。ボキャブラリが貧困なのでどうダメなのか説明出来ないのがもどかしいが、「元からそんなにいいもんでもなかった」ものよりも「遥かに劣化」していると「感じる」のは確か。なんだろ、えれーリズム悪いしさ、起承転結すらあやうい。なんだこれ。(とはいえ惰性とはおそろしいもんで、文句言いながらもいまでも毎週観ている。)

シュレディンガーの猫、の話。この話が「深遠な何か」とか「神秘的なもの」としてジャーナリスティックあるいはドラマティックに、もしくは哲学的に描かれてるのを見るたびに、いつも笑けてしまって困る。シュレディンガー自身に面白おかしく語りたかった気分があったのかどうかはわからないが、これを神秘的哲学的なものだと考える風潮は「後付け」なのだろうと思う。

理系の大学では(理学・理工学系なら)ちゃんと「習う」のでわかるんだけれども、「不確定性原理」というのは本当はもっとずっとシンプルな話。これは「観測、という行為が事実を捻じ曲げる」ということに対する考え方。「真の姿を捉えるのに「作用」を与えることなく事実を捉えることは出来ず、「作用」を与えればそれはもはや事実ではない」てことなんだけど、これは原子核の観察をするのに原子核の振る舞いに変化を与えずに観測することは出来ない、という間違いのない事実のことを言ってただけなんだよね。(だから不確定性原理は、「その不確定性の御し方」を根底に置くのである。確率論で。)

と昨晩考えてたところに、本日のEテレの「岩井俊二のMOVIEラボ シーズン2」(最終回)。テーマは「嘘をつく」話なんだけれど、その中で「ドキュメンタリーのパラドクス」の話がちらっと出てきた。そうよね。ドキュメンタリーは「カメラがそこにいる」という時点で嘘をついているわけだ。これこそがシュレディンガーの猫である。