知らないことはいいことだ

昨晩の「林先生」をみながら。

初耳学、ね。

林先生が知らなかったときの悔しそうで楽しそうな顔を見るのが楽しい。

知らないことは悔しいことだ。そして楽しいことだ。てことを、林先生は良く知っている、と思う。知らないことは多ければ多いほど楽しいと思うんだね。まだまだ楽しめる。死ぬまで遊べるつぅことだ。

アタシはたまにというかしょっちゅう「知ってるフリ」批判をしとるけどさ、そもそも知らないことに直面して「悔しい」のはこれは当たり前なんだと思うんだ。それは知識欲というごく自然な欲求の賜物なわけだし。そしてだな、批判の対象となるのは、「知らなかった」ことへの立ち向かい方の話なのよね、本当はこれ「批判」じゃなくて、哀れんでいる。これほど面白くて楽しいこともないのに何て勿体無い、て話なんだよね、実際。

ところで昨晩の初耳学の話の最初の話で「価値の中立性」の話をしていたが、この話でオートメーション・バカだったかネット・バカだったかあるいは MIND CHANGE だったかでこれの話をしていたのを思い出した。「価値の中立性」とは要するに「いいも悪いも使い方次第」という論法で、これら三著作のどれかで、この考え方への反論めいたことが書かれていた。

価値の中立性論法はわかりやすいし正論以外の何者でもないんだけれど、その反論も興味深かったのね。反論、というよりは、「論点が違う」という話、です。「価値の中立性」論が、いわゆる詳細検討を「台無しにしてしまう」という話。つまりはたとえば「原子力の利用」論での「軍事利用はうんぬん/平和利用のうんぬん」論は「それはそれとして詳細に検討しなければならない」のに、「ぶっちゃけ使い方次第ダヨネー」が、個別に語らなければならない議論をトーンダウンさせてしまうのな。

(なお、その著作で「詳細検討を台無しに」、という言い方をしているわけではありません。これはあくまでワタシの解釈。)

「ぶっちゃけ」という言い方もそうだし、「要するに」やら「まとめると」がどんだけ危なっかしいか、という話にも通じる。「価値の中立性」という考え方自体には価値はあるけれど、これを軽々しく使うのは危険だ、という話。

いつも思うんだけど、「中立」って、いいもんでも悪いもんでもあると思う。中立に価値があるのと同様に、一方に振り切るのだって同じくらい価値があるはずなんだ。ただ、「中立=冷静」「中立でない=冷静でない」という構図には注意しないといけないかな。得てしてそうなりがちなので、間違った中立でさえ支持を受けやすいんだよね。

それともっといえば、というよりまさにこれがその著作が批判していることなんだけれど、「中立であるという主張は本当は中立じゃない」ということ。つまり「良く使えばいいんだからいいだろ!」という、実は一方に偏った意見を擁護するための「中立論」、なのね。