その教育をしたのはどこのどいつだ

と言いたくなることが、ままある。

どこぞのどなたか、の元凶は、以前であれば大抵質の悪い出版社が飼っている質の悪いライターが「春になると」書く出来の悪い記事、だったりしたものである。だいたいはバラまきの元の出版社は決まっていて、迷惑なライターもいつも決まっていた。そして最近ならどこぞのブログのどこぞの記事、だろう。

さらに悪いことには、エンジニアが「間違った育ち方をする」のには一定の傾向があって、

  • 昔習ったことにしがみつく
  • 少ない情報に頼る
  • 自分の理解出来ることだけ理解しようとする
  • 自分の理解出来ないことは理解出来るように捻じ曲げる
  • ので自分は理解出来ないものはないと思い込んでいる
  • ので自分は出来ると思い込んでいる
  • ので人の話を聞かない
  • こういうのに限って発言力がある

私が「馬鹿」と呼ぶのは常にこの手の人種だ。この「馬鹿」であっても最初に出会う情報が正しいものなら被害は小さくて済むのだが、「馬鹿は馬鹿を呼ぶ」のだろうか、この手の人種は情報を見る目もないので、十中八九「ダメな情報」に飛びつく傾向が高いように思う。

だから何か成果物に問題があったりすると、それを起こしてしまった人物よりも、「教育」のほうに問題があるのだろう、と思ってしまう。

ちょっと Python ドキュメントの翻訳の「誤訳」でどうしても看過できないのがあってな。

「load-time=静的」「run-time=動的」と訳されちゃってたのだ。をぃ。これがまさに「自分の理解出来ないことは理解出来るように捻じ曲げる」だ。きっと当人には責任は8割くらいしかなくて、誰かがこんな間違った情報を撒き散らしてるんだろう、と私は理解した。そもそも英語が言ってることを勝手に矮小化してしまうこと自体が、エンジニアとして気持ち悪くないんかね、とも思う。(集合の意識が欠けてるエンジニアはだいたい似たような間違いをよくやらかす。)

私は若手教育にはかなり苦労してきたので、「教育に便利な文書や絵」を書き溜めておきたいなぁ、といつも思っているので、そのうち「これ見ろ」と言えるような絵を書こうと思ってる。これね、一連のフローを絵にしたいんだなぁ。ロード時を静的、ランタイムを動的、なんて曲解をしてしまうような輩には効かないかもしれないけれど、「ソースコードを書いてプログラムが OS 上で動く」の流れ、face to face なら簡単に説明出来るんだけれども「毎度毎度」説明するのもいつもながら大変だよな、と思ってたの。どんなであれ「プログラム初体験」の人にはこれ、すぐにはわからないと思うし、逆にこれを知ってるだけで育ち方も変わってくるからね。(前にも書いたけど、リンカの問題なのに設計をこねくりまわして実装を引っ掻き回す若者なんか、何人もみた。)