本日の「読んでみたまえ」

読めと言われたら読まれないに違いない。

読まれないことを期待してどーする。


先週? の「達人達」。リリーフランキーと宮沢りえ。

ノートには気になった言葉はメモしてはあるが、紹介するのはやめとく。「名言集」がすぐに作られるタイプの人だ、もともと。

リリーフランキーが一家に一台いるような居酒屋に浸りたい。彼をみてると必ず居酒屋でのヨタ話が浮かぶ。考えてもみればわずかばかり昔には、こういうおっさんが集団に一人はいたし、そういうおっさんと交流する場にもそんなに事欠かなかったんじゃないかな、と思うに付け、寂しくなることもある。だいたいこういったおっさんの言葉に、共感したり反発したりしながら、自分の信念であるとか考え方が研がれたり磨かれたりもするもんだろう。対面で交換しない意見表明なんか、ひとりよがりでロクなもんじゃない…、ってのを、こういう一方通行なブログで発信してるワタシもどーかしとる。

「呑みニケーション」は最近は最も嫌われる類のコミュニケーションだ、と言われるが、「MIND CHANGE」などで言われる通り、もはやそれどころの話ではなく、今となっては「共感なるもの」が「実感をもって理解されない」時代だ。たった10年・20年昔のような社会にさえ、もう戻れるとは少しも思ってはいない。戻りたいとは誰も思わないであろうからだ。けれども最近の「ムーブメント」がどこに向かいたがっているのかには、意識的であって欲しいと思う。「今流行のデザイン思考」が「今最もホットなのは共感力」とことさらに謳うのはそう、社会全体の共感力が崩壊しているからなのだし、「今熱いレジリエンス」がことさらに「回復力」を説くのは無論、社会全体が打たれ弱くなっているからに他ならないのだ。それは危機感からこそうまれている、のだ。

なんて深刻なことを、おでんくんの本上まなみの声を思い出しながら考えた、ってオハナシ。


ネット・バカ」を今のんびり読んでいる。「オートメーション・バカ」と読む順番逆だったよな、とも思いつつ。「オートメーション・バカ」「MIND CHANGE」と、まぁ言ってしまえば同じようなことばかり書いてあるわけだけれどもね。それでも言葉の圧力に圧倒されて、やっぱり読み進めてしまう。

その中の、「文字が発明された時代の、文字の功罪」についてのソクラテスとプラトンの議論の話のなかで。P83付近:

プラトンの哲学における分析的な思考は、書くことが心的過程に及ぼしはじめた影響があってこそ、初めて可能となったのだ

~書くことは、意識を高める

その道具が脳に近い(直結している)かどうか、について、「感じる」ことってあります? ワタシは、キーボード・マウスからペンに持ち替えたときに、「脳と直結した」感覚を、肌感としていつも持つのだけど、これってワタシだけなんだろうか? 言い直した方がいいかも。ペンが近い、というよりは、「キーボード・マウスが脳から遠い」。これは音楽を聴く際のレコードと CD で CD に感じる、喩えようのない喪失感にも似ている。

脳科学的な証明のようなものはまだワタシは読んだことはないけれど、「利き手にペンを持って書く、という運動」はきっと、脳を活性しやすい何か、があるのだろう、と思う。プラトン時代のプラトンの「書くことが心的過程に及ぼしはじめた影響」は単に脳を活性する以上のものがあるわけなのだけれども、感覚的にはこの、直接的に脳に働きかける体験・体感、というのはきっと、当時にも大きかったんじゃないのかな、と思うのね。

対してキーボードにはその何かが欠けているのだろう、と。どうにも「キーボードでタイプすることは、意識を高める」とまでには思えない。何かが違う、と、まさしく「何かが」感じているらしい、少なくともワタシの場合。

SCANSNAP で手書きを PC へのインプットにするてのはだから、ワタシにとってはローテクでもなんでもなくてむしろ理にかなったもの、なわけ。手書きした方が記憶への定着が早いというかそんながあって、決してちょいと昔のブーム「手書きの温かみ」なんぞではない。のです。

ところで、「どんな筆記具が」脳に効く、だろうか、とも。筆、筆ペン、鉛筆、シャープペンシル、ボールペン、万年筆。高価な万年筆はワタシにはお呼びじゃないというか、ビビっちゃって手が出なかったりすんだけど、200円万年筆 Preppy が最近お気に入りで使ってるんだけど、なんというか、これであればボールペンより万年筆が「脳とつながってる」感、高めな気がするわね。

なんてことを、「ヨルタモリ」の劇中番組「ぼくらの筋肉」で筋肉に話しかけるボディビルダーを観ながら考えた、ってオハナシ。違うか。

筆記具の種類はともかくとして、積極的に心に呼び出す(生成する)ことの長期記憶に与える有意にポジティブな効果、要するに「積極的にアウトプットする」ことが学習に効果的だということ、これはもうだいたいのところは証明されてると思って良さそうですわよ。


手書きするという行為とコミュニケーションについても一つ。

「ペアプログラミング」というのが、あるでしょう? 相手にその場で「書いてみせる」ことは、本当はペアプログラミングがもたらす恩恵以上に計り知れないものがある、と思っている…のだけれども…、これはなぁ、そういう文化を一度も見たことがないと、まず信じてもらえないんだよなぁ…。

相手に話す・書くが同時進行で連動しているとき、意思疎通がスムーズに行くことは、体感してみないと理解できないことであって、ましてや「ディスプレイに張り付いたまま頑なに離れない」同僚を「引っぺがして」までやらなければならない場合、かなりエネルギーを消費しちゃうからね。これを「文化」として根付かせるまでに疲れ果ててしまう人が、いまや多いんだろうなぁ、と想像する。いや、あたしがまさにその疲れた人だったから良くわかるのですわ。半年かかったぞ。

と言うかそれ以前に、「対面コミュニケーションが生産性に寄与する」ことすら全く信じようとしない、それも頑なに拒み、ましてやその動機が「正義感」だったりするような文化の方が主流だものね、今は。そこを切り崩していくことの方が体力要るけどね。

なんてことを、「となりの関くんとるみちゃんの事象」を観ながら思った
…………………………というのは嘘です。ごめんなさい、無理しました。


とあるサイト。「ほんと最近の NHK はバラエティが多く」「昔はお堅い」「お母さんと一緒くらいしか」…。

これは事実を述べているとは到底言いがたく、単に「そう思い込みたかった」の間違いであることくらいは、贔屓目なく満遍なくテレビを観てきた視聴者ならわかること。NHK を擁護するでも責めるでもなくね。「プリンセス・プリンプリン物語」のような伝説的な番組を、単に知らんのでしょう。(ただし…1970・80年代くらいまでのテレビは全般に今よりずっと「滅茶苦茶」だったわけで、NHK も例外じゃなかった、ということでもある。)

NHK を「お堅いだけの局である」と思い込みたい人・思い込み続けていたい人、というのは世の中に結構多いのよねぇ。昔からほとんどバラエティ番組比率変わってないし、昔からとんでもないのはとんでもなかったってば。民放よりぶっちぎりでぶっ飛んでたこともザラだし。こう思いたいのって、なんかのトラウマなんだろか。でもまぁ「NHKが良いものである」のような有害なシュプレヒコールの被害者なのに違いない、と思っておいてやろう。そういう可哀相な反発、わからんでもない。「堅い」のは NHK の使命だし宿命なのは事実なんだしね。だいたいにして「国営放送」が、視聴率のためにバラエティ番組だけやってたら、それこそおかしいじゃないか。国営の公共放送には、果たすべき使命があるのです。

その限られた少ない枠での NHK のバラエティ番組の個性って実際のとこ、なんなの? てのは。これは「企画における一点突破主義」と「隠しても隠せない生真面目さ」によって醸し出される天然っぷり、だろう。一点突破主義でわかりやすかったのは、初期の「勝ち抜きオンエアバトル」、「生真面目さ」が悪いほうに出たのが「クイズ百点満点」、絶妙なバランスなのが「試してガッテン」てところだろう。これらはどれも「ブッ飛んではいない」標準的 NHK バラエティ。「鶴瓶の家族に乾杯」や「ブラタモリ」も標準的。ぶっ飛んでいる一番最近のでは「おやすみ日本」、ほどよく飛んでるのは「今夜も生でさだまさし」てとこだろう。最後の2つのようなものは、民放でさえ見られない。天然には勝てない例、とでも思っておけばいいのでは。

などと、美しすぎないアナウンサー小野文惠さまをみて思ったとか思わないとか。


鶴瓶の話が出たのでついでに。

「スジナシ」の話。富山に住んでいたことがあるのです。富山ってなんだかんだで「名古屋文化圏」に属していて、CBC が普通にネットされている。だから富山県民は比較的名古屋のテレビを知っている。「スジナシ」「ノブナガ」「ヒデヨシ」どれも馴染み、だった。

だから東京でスジナシが始まったときは本当に嬉しかったのだ。けれど、主体が TBS になってからがどうにも馴染めず、中井美穂の好き嫌いとかそういうことではなくて、もとのスタイルに戻して欲しい、とずっと思っていた。

CBC時代でも何度かスタイルが変わっているので、そんなにとやかく言うことでもないのかもしれないけれど、TBS期のスタイルに馴染んだことは一度もない。やはり客席があって、客席が笑いや拍手を我慢しているさまを楽しみ、プレビューで解放された客席をまた楽しむ、のが良かったのだ。

先日の「劇場 スジナシ」。ので、CBC時代のスジナシの雰囲気があって、さすがに楽しかった。DVD、買おうっと。