本日の「どうでもいいこと」

タイトルで飛びつかれるのは懲りたので、中身読まないと何書いたのかわからんようにしといた。タイトル通り、どうでもいいことが書いてある。読みたい人だけ読んでくれぃ。というか、暇な人以外は読まないでくれぃ。


本日の「どうでもいいこと」、ひとつめ。

「注意してないと、とんでもないことに気付かず過ごすことって、あるよな」てのと、「昔の記憶なんかあてにならん」て話。

先日、気分転換も兼ねて、「東京」まで本を買いに出かけた。東京都民なのに、しかも23区民なのになぜに「東京」言うのか。そりゃあーた、あたしゃ「神奈川県民」というか「川崎市民」度の方が高い「ほうの東京」だからーさ。

特に新丸 oazo の丸善が好きでね。良く行くんだわ。丸善⇒八重洲ブックセンター、という、合理的でない梯子も良くやる。

そんななんで、丸の内口の風景は見慣れてると思ってたし、意識は「東京駅が元の趣に戻ったな」としか感じてなかった。

丸の内口を出て左手をふとみて…。ちょっと目を疑う建物が…。「あれぇ? 東京中央郵便局が…」。こんなに何度も来てるのに気付かなかったのか…。

東京中央郵便局を日常的に利用するとこになんか居住したことはないんだけど、どういうわけだか一度だけ「利用」したことがあって。多分 2006 年だと思う。転勤で東京に戻ってきてすぐだったはずだから。そのときも多分本屋めぐりのついでだったんだろうな。そのときの印象はさ、「趣があって、落ち着く、素敵な建物だなぁ」だったわけね。「良い建物だ」かどうかはこの手の専門家じゃないんで良くわからんけど、「落ち着く」のだけは確かなのよね。

でさ。『古い建物を「実用的に使い続ける」ためには、立て替えや補修は避けられないことで、致し方ないことだとは思うんだけれど、旧局舎と雰囲気違い過ぎないか?』と思ったのよ。なんせワタシの記憶の中では「東京中央郵便局は赤レンガ作り」だったのだから。あれれぇ? 全然違うじゃん。旧:

新:

この写真だけ見る限り、そんなに雰囲気変わってない。趣は残そうと努力はしたようだね。うーん、まったくあてにならんな、記憶なんか。

とはいえ「どうにも趣を感じるような建物に思えない」のは、後ろにそびえる JP タワーのせい、なのかも。札幌の時計台が「ガッカリ名所」なのと同じじゃないかね? あそこも「ビルに囲まれてるさまが痛々しい」っぷりが「ガッカリの正体」なのだけど、それかもしれない。

「意外なことに案外気付かない」に関しては、「東京中央郵便局 旧局舎 解体」ということ自体が、結構なニュースになってたことそのものについてもそう。国会で議論されたようなことだったのか…。

「文化的価値が高い建物の保存」と「文化的価値が高い建物で働く(学ぶ)」ことについては、私は北海道大学の理学部本館を思い出す。ワタシは理学部ではあったが本館の住人ではなかったので、「いつもそこにいる」感覚はついぞわからなかったものの、いくつかの講義は本館で受けていたので、その「快適とは言えない」感じについてはなんとなくわかる。たまに入るぶんにはいつでも「あー、落ち着く、素晴らしい」だったのだが、いざ講義をそこで受けるとなると、冷暖房の効きの悪さや照明の効率性が気になるわけだ。つまり…「暗い」のですよ。きっと「落ち着く」の一つの理由でもあるのね。

北大「旧」理学部本館は、今は博物館になっている。社員旅行で札幌を訪れて、そのときに初めて博物館になったことを知った。中はかなり充実したものになってて、これにも驚いた。観光客が相当に訪れるようで、(北海道旅行でわざわざ行くようなものではないとは思うが)札幌の一般市民がちょっと気軽に出向くにはなかなかに十分な内容になっていた。

でもまぁ、こういった保存方法は、「都心の一等地」では、望めるわきゃぁないよね…。(横浜にはそういったのがいくつかあるが、さすがに東京駅のまん前では無理だろう。)

もうひとつ「あいまいな記憶」の話。「東京駅が昔の趣に」の話。

ワタシの記憶はこうである。子供の頃にはじめてみた東京駅は、今と同じ赤レンガ。次に少し経ってから訪れた際の東京駅が、つい先日までの東京駅で、「出来上がったばかりのピカピカの東京駅」だったと記憶していた。そして「元に戻った」、と。知ってる人は笑うと思う。もちろんこれは完全に記憶違い。そもそもがたった数年前のことすら記憶が書き換えられている。よくよく思い出してみると、丸の内口はずっと赤レンガ作りだった:

そもそも中央郵便局の「良い記憶」も、東京駅丸の内口の赤レンガとセットだったはずだ。かなり滅茶苦茶である。(工事中の記憶が、記憶の上塗りにかなり関係している気がする。)

初めて東京駅を目にし、次に東京駅に来た、とすれば、1985 年と 1987 年のはずである。が、この時期に東京駅には何の異変も起きていない。どうやらワタシは上野駅の記憶と完全に取り違えているらしい。「出来たばかりの」は多分 1985 年が東北新幹線開業の年だからだ。そして「昔は違った」という誤った記憶がここでどうやら勝手に注入されている。つまり「その時点で一度も見たことがないので存在しない過去」を「記憶」している。おそらく「昔の上野駅」をその際に写真かなにかで見て、「見たかった」という願望がそのまま自分が見たかのような記憶として残ってしまったのではないか? そしてその「間違った記憶」は、なぜか「東京駅のもの」としてさらに上書きされたわけだ。

こうやって分析すれば面白い話ではあるが、こういった記憶の塗り替えなんか、しょっちゅう起こるんだから、「かつてのあいまいな記憶」に頼るのって、ほんとろくなもんじゃないわ。


本日の「どうでもいい話」、2つ目。1つ目の話とは、まっっっったく関係ない。単に同じ日に思った、というだけの共通点のみ。

今日、というか昨日の「花咲舞が黙ってない」の話。

乱暴に要約すると「社外秘資料を自宅に持ち出して盗まれたすったもんだ」の話。

同じ時間にぶつけられている「花咲舞が黙ってない」と「リスクの神様」はなんだか、似通った話の裏表、みたいで、その対比だけで結構笑えたりもするんだけど、「花咲舞が黙ってない」はどっちかといえばいわゆる「勧善懲悪型」(水戸黄門型)で、その「ライト」さが人気の秘密なんだろうとは思う。あるいはその「ツッコミやすい」ところが面白いのかもしれない。

「社外秘資料を自宅に持ち出して」を、結果として軽く扱い過ぎなんだよ、と、「まともな神経を持って働いてる人なら」思う。「松木」(成宮寛貴)が厳重処分を受けたんだからいいじゃないか、と言うところがまぁ、製作陣のエクスキューズなのは理解は出来るんだけどね、けれども「花咲舞がその行為を美化してしまっている」ことを、看過出来ない人は多いと思う。「頑張っている人なんだから許す」という類のもんじゃないはずなんだけどね。

ドラマとしては、上司が「規則違反」だけで攻め立てているのも、「勧善懲悪型」のためには必要なこと、なんだねぇ、残念ながら。現実には「なぜそれを持ち出してはならないのか」を丁寧に説明出来る上司、いるはずでしょう? おそらく「リスクの神様」で全く同じネタをやれば、そんなやりとりがあるであろうことは想像出来る。でも「花咲舞に「黙りません」」と言わせて視聴者にカタルシスを与えるためには、上司は「悪である」必要がある。あぁ、水戸黄門。

この手のセキュリティについての「感覚的なものの個人差」は凄まじく大きい。ワタシは実は「セキュリティ問題が刑事事件になったことがある」組織にいたことがある。リアルタイムではなく、「数年前に」とのことで、配属時に受けたセキュリティ教育は正直「身の毛もよだつ」ものであったし、実行されているセキュリティ対策もとても半端なものではなく、実に「不自由極まりない」ものであった。

そうした感覚がどちらかといえば「当たり前」と思っているので、通勤電車で業務の話を平然としている(同業と思しき)サラリーマンを見かけるたびに「やめとけ」と注意したくて仕方なくなるし、平然と仕事の資料を広げている者をみれば、それこそぶん殴りたくなるほどの怒りを覚えたりもする。いくらなんでも「公共の場所で業務の話をしてはならない」という教育を「していない組織なんかあるはずがない」と思うのである。常識だろ、と。だからおそらくこうした人たちは、「甘い」んだろうと。

あ、「花咲舞が黙ってない」、ワタシ全然嫌いじゃないよ。だって、上川隆也、成宮寛貴が好きなんだもん。セカンドシーズンに関してはかなり成宮寛貴目当てで見とるわ。それにね、「水戸黄門」は、褒め言葉だぞ。「勧善懲悪」だって別に悪い意味で言ってるわけじゃない。わかりやすく「スッキリ」したって別にいいじゃないか。


うー、長いよ。真面目に読んだ方、お疲れ様。