今だからこそ、迷子の薦め

立体地形図からの連想ゲームでもある。

生田緑地石垣一夜城大森貝塚八王子城多摩川台公園と等々力渓谷なんてな S.W. の出歩きを、各投稿では「ちょっとしか迷ってない」かのように書いてるけれど、本当はもっと迷ってる。例えば等々力渓谷に向かう際に「環八に出てしまった」あとすんなり等々力渓谷方向に向かったかのように書いたけど、ほんとは少し逆走、つまり蒲田方向に歩き出しちゃってたりしてる。小田原城に向かう途中も、偶然通りかかって寄った早川口遺構で「行き止ま」ってちょっと面喰ったりしたことは省略してる。八王子城址のあとに寄った多摩御陵は、ほんとは真っ直ぐ辿り着けずに、隣の公園を御陵と一瞬勘違いしてる。散策路に従うとそうなっちゃうのね。なお早川口遺構では、目の前の住人が笑顔で「通れますよ」と声をかけてくれたりもした。

イマドキなんでこんなことになるかといえば、無論「GPS的なデバイス」の類を持たずに歩いてるから。紙の地図だって滅多に持ってない。地図の類はなんでも好きで、電子地図ももちろん好きなのだけれど、迷子になりたいがために、GPS 的デバイスを携えて歩きたいとは思わない。紙の地図もガイドブックも、持ったまま歩きたいとも思わない、あんまり。観光地では街のところどころにある大きな地図だけ時々みて歩くのが好きだ。


ちょっと昔、といったって、たかだか10年程度の「ちょい昔」であれば、「迷子になるの好きでさぁ」というと、結構共感してくれる人、多かったんだよな。誰も「スマートな GPS 的なデバイス」は持ってなかったんだから迷子は誰しも日常だったと思うけど、好んで迷子になろうとする人って、ぜんぜんワタシだけじゃなかった。自動車のナビの普及率が急激にあがった20年くらい前も、「ナビゲーションシステム」よりも「助手席に乗せたナビ役にマップルを渡して」ドライブする方が楽しかったが、これも共感率高かった。

物心ついた頃からスマホ、というほどに若い子はともかく、今の20代前半くらいの感覚って、どんな感じなんだろう? どこにでも GPS がくっついてくるような生活を、それでも学生時代からやってるわけよね? そうでもない? ワタシもそうだけどさ、「迷子が好き」になるのって、行動範囲が劇的に広くなる、高校・大学以降だと思うのね。とすると、大学時代から「手提げ GPS」てると、もう迷子が好きになるような機会を逸しちゃってないかしら、と思うんだよなぁ。

迷子が面白いのは、スリリングである、という部分もあるし、思わぬ出会い、思わぬ景色に出会うという、予定外の驚きが楽しいからなわけである。それと、旅の予習は薄い方がいい。行ってから知ると、「自力で気付いた」気分になれてお得だ。どんなに「んなこと誰でも知っておる」ことでも「恥ずかしい自慢」をしたくなるほどに。

地図の話は「オートメーション・バカ」に面白いことがいっぱい書いてある。P167~175付近。「読んだ – 「オートメーション・バカ」」に載っけたワタシの読書メモ、読んでみて。この話、とても共感出来るのねぇ。「地図の文脈」の感覚、の話なわけなんだけれど、GPS ナビゲーションの「点と点」の離散感覚と、従来地図感覚の「広がり」。前者しかわからない感覚だと、ワタシなんかはちょっと可哀相に思ってしまう。てのも、後者の楽しさというのって、「知識の脳内地図」の広がる感覚と全く同じだから、なのね。


地図が好きで、迷子が好きな場合のお奨めの歩き方。まず、地図で予習する。ラフに憶えるのがコツ、というよりか、「行ってみてもいないのにどうせ詳細になんか記憶出来ない」。ほっといても曖昧にしか憶えられないから平気。

そして現地ではおぼろげな記憶のまま歩く。どうしようもなくても、山の中でない限りは街の案内地図は溢れているし、道路には「青看板」やら国道標識・県道標識・道道標識があるし、五街道には「日本橋まで~km」標識もあるしで、多少迷っても大抵はどうにかなる。住宅地が一番困るが、どうしようもなければコンビニに入って聞けばなんとかなる。そうやって迷うと、「耳学問」だった地名が定着する。例えばワタシは今大田区に住んでるわけだが、迷い歩きしてはじめて世田谷区がお隣だということを知った。つーか「こんなに近かったのか」と。馬込が至近距離なのも、歩いてから気付いた。

そして最後に地図で復習する。どこを彷徨ったのか悩みながら地図に落とし込むのが楽しい。Google Map のストリートビューは、だから、行く前に見るより、行ったあとで見るほうが断然面白い。「あぁ、そうそう、ここここ」と。行きたい場所を知るのに使っても、臨場感に欠けて今ひとつなだけでなく、結局のところ憶えらんない、んだよね。むしろ従来地図でランドマークになりそうな目印数個を記憶して歩く方が、まだ地図理解が早い気さえする。

地図的な見方、というのはいわば鳥の目(俯瞰・鳥瞰)、なのね。で、地上を歩くというのは、いわば「虫の目」。両方をやるから理解が膨らむわけです。この感覚がまさに「何かを理解する」という知的活動そのものの縮図であって、だな。学者の研究態度にも通ずるものであるわけだ。これが楽しくないわけはないのであって。

先にも言ったとおり、昔はこんなことわざわざ言わなくても感覚的に結構知ってる人が多かったのね。でも今って、下手するとこういう楽しいこと、言われないと忘れてしまっている人が多いんじゃないかなと思うのね。なのでな、「GPS を捨てよ、街へ出よう」なんて寺山修司みたいなことを、あえて言ってみたいと思った次第。