読んでいない読書評「オートメーション・バカ」

いや、読みますってば。読みたくて買ったんだから。

ピカソの言葉、

Computers are useless. They can only give you answers.

が好きだ。元々はこれは自分のチームのスローガンにしたくて拾ってきた言葉。若者であるかそうでないかに関係なく、頭脳労働における生産活動に、手札として PC しか想像出来なくなっていることに日々危機感を感じていてた。電子計算機ではないアウトプットを経由することが、実は生産性を高める、ということを伝えたかった。このことは、IT業界と同じように頭脳労働者であるところの広告代理店などのクリエイターにとっては常識であると思っているし、脳科学的根拠もある。

本当のところは、チーム構成員に、魔法の裏側、を伝える意図があった。これも若者に限らず、また、最近に限ったことではないが、情報を受動する側は、結果しか知ることが出来ない。能動的に知ろうとしない限り。すなわち、電子計算機の中に実現されているものの答えは電子計算機の中にしかない、と考えてしまう傾向がどうしても顕著だ。しかしながら、たとえば Unix が黒板を使った議論によって設計されたことを知ること、あるいはソフトウェアは人間の脳活動の結果うまれていることに今更思いを馳せること。本当にコンピュータだけが、生産活動に最適なのか。そうではない、ということこそが、コンピュータの中にしか答えはないと考える指向からしてみれば「魔法」なのであり、答えだけ知ろうとしても得られないものだ。そうした魔法が、成果としてのアウトプットになることがないからだ。

そんなことを考えつつ、チーム力を高めるための工夫を日々してきたわけであるが、これとは別に、「コンピューティングにより便利になり、そして、腑に落ちないこと」が日々増えている気がして仕方がない、この気味の悪い感覚を説明出来るボキャブラリーに欠けることが、これがまた不愉快で。たとえば、だ。情報収集をしたい、とする。ネット社会前は、それが良いことかどうかは別として、情報発信は最低限品質を保証すべく練られ、そして厳選された情報だったはずであるが、誰でも発信が出来るようになった今、必然的に最低限の品質が守られない情報比率が高くなる。良いものはネット社会前より良くなったことは陽の側面だが、絶対量が多くなり、低品質の情報を目にする機会が激増しているのは、陰の側面だ。もちろん私はその陰の側面に加担もしていることであろう。

だいたいにして、人を豊かにするはずの技術は、ある特定の分野における人々の仕事を無限増で増やし続けていることがもう、気味が悪くて仕方がないし、仕事の量に比例するがごとく技術者の平均スキルは落ちてゆく一方なので、特定の個人に負荷が集中し続けることは、当面改善の見込みがない。わかるだろうか? 馬鹿ほど、必要とされないがゆえに仕事に疑問を感じない。負荷も集中しない。何も生み出さないが何も起こさないので、エスカレーターで技術が自動的に向上していると思い込む。そんな馬鹿に付き合わされる技術力の高い技術者は、永遠にその馬鹿の尻拭いをし続ける。格差の現実とは、そうした不条理なものだ。決して努力したものが報われないことが格差なのではない。良いもの・悪いもの、について、上はずっと高く高くなり、下のドン底ぶりが目も当てられない。これが、格差の正体であろう。

先々週だったかな、英語教材探しに書店に行って、ついでに見つけていたのだ、「オートメーション・バカ」「ネット・バカ」を。共感出来そうだなぁ、買おうかなぁ、と思うも、その際は購入せず。が、思い出せば出すほど、どうしてもこれ、読みたい、と想いが強くなり、昨日別の買い物のついでに、買ってきた。ついでに、同じような問題意識と思われる「MIND CHANGE」も。

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

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なぜ便利になった実感が腑に落ちないのか、また、昔よりも馬鹿がより馬鹿になり、普段着で目立つようになったのは何故なのか、そんなことが書かれていそうな気がした。軽く立ち読みしてみて。所詮個人が経験できる量には限りがあるから、私には具体的な言葉が足りない。きっとこの本、面白いに違いない。生きにくさの正体が垣間見える、であろうか? 期待して読むとしよう。

…ちぅか、あんまし馬鹿馬鹿いうもんでない。考える馬鹿と考えない馬鹿、私は考える馬鹿になりたい。これでいいか?

あとさ、こんな馬鹿げた時代は所詮過渡期だ、きっと良くなるはずだ、とも思っているよ。今の20代のトップ・ランナーたちは、我々世代のトップ・ランナーの何倍も何十倍も凄い。期待している。