みなさまは、amazon とかの書評とかを、どう読んでる?
ワタシも何か評価をしなければならないときに「人を選ぶ」と言いたくなることは良くあって、多用はするんだけれど、「人を選ぶ」とか「効果には個人差があります」ほど便利で安直な逃げもないよなぁ、と、最近ちょっと興味があったいくつかの書評の類を読んでて思った。
考えてもみれば、「老若男女津々浦々万事万能」な物・事なんか、滅多なことではあるわけないよね。「是な人の割合が多い/少ない」という、程度の差なんだ、普通は。
売る側が良い面だけ強調しがちなのはこれは目くじら立てたってしょうがないことで。皆わかっているのでは、誰だって差し引くでしょ、そこは、とは思うのだが、一方的な情報だと「どの程度差し引けばいいのか」わからないので、消費者行動としては「騙されたと思って博打打ってみる」ないしは「信じるもんか、と思う」かどちらかの、つまり極端に振れるしかないわけね。だからこそネガティブ評価も平等に取り扱われる amazon 書評のようなものが役に立つ、ということだろう。
そう考えるとさぁ、amazon 書評で「これは人を選びます」とか、「効果には個人差があります」って、評価として意味あんのかなぁ、と思うのな。だってさ、書評を受け取る側ってね、「売り手側は全てを言うわけがないのは知っていて、セールストークを差し引くための情報」が欲しくて読んでるんじゃないのかなぁ、と思うんだねぇ。つまりは「人を選びます」には「んなことわかっとるわい」としか反応しようがない。そうでしょう?
消費者が本当に必要としている情報ってさ、「それは私に効くのか」のはずなんです。つまり「誰のどんな状況向けに最大効果を発揮するのか」を知りたいはずなんだ。「効果には個人差がある」ことなんか誰だって知ってるし、「人を選ぶ」のは程度の差こそあれ常に言えることだ。そうじゃなくて、「私はその選ばれた方か?」を知りたいわけよね。
これを綺麗な言葉で言い直せば実に簡単なことで、「誰の、どんな状況がターゲットなのか」てことでしょう。医薬品の「効能・効果(適応)」ですよ。要は。これが最も必要としてる情報なはずです。
売り手がこれを明示する法律でも作ってくれんかな、とも思うけど、そんなないものねだりしても仕方ないけどさ、書評のガイドラインみたいなのはあってもいいよな、とも思うし、書評の読み手はそういう情報を抽出するように心がければいい、とも思う。
ちょっとね、驚くようなものを読んじゃったんですよ。
「上級者には必要のない詐欺まがいの」…。「上級者には必要のない」まではいい。「詐欺まがいの」を導出してしまう心理って一体…? 「効能・効果(適応)」に上級者が含まれてないだけのこと、と思うのね。本当に詐欺まがいじゃないならね。「お金を払ってしまった」悔しさ、みたいなことはわからんでもないけれど、書評ってそうじゃないよなぁ。繰り返すけれど、書評を読む側が求めているのは「私にとって、買う価値があるものか」ですよ。「上級者向けかどうかの疑いを心にも留めずに購入してしまって後悔している愚痴」は余分。「上級者の私には不要なものだった」でいいのにね。(なぜなら当該書籍は「初級者向けにしかみえないもの」だったから。)
まぁ、そこらの一般人にそういったことを求めるのは酷かもしれないが、人の目に触れるものを書くからには、もうちっと冷静に書いて欲しいもんだ。というのもさ、こういう「冷静じゃない書評」って、強調すればするほど逆効果だから、なのね。だって馬鹿に見えるから。馬鹿に見えたら負けです。誰もそれを信じない。
似たようなものでもう一つ。「当たり前のことしか書かれていない」と。これはなぜ、一流の人はハードワークでも心が疲れないのか? 実践版「レジリエンス・トレーニング」に付いている書評。
この本についての私の評価は、「読む価値はあるが、トレーニングに使おうとすると肩透かしを喰らう」というもの。ゆえにポジ・ネガ両面評価を持ってるんだけど、「当たり前のことしか書かれていない」ということでもって怒りを露にしてるのをみて、驚いたと同時に、哀れに思えて仕方がなかった。
この人、「この魔法のツボは」に騙されたい人、なんだろうか? 当たり前のことを地道に真面目に取り組むことほど「難しくて当たり前ではないことはない」のに、それを突きつけられて「俺はツボに騙さたいのに!」とわめき散らしているようにしか見えなかった。「当たり前のこと」と言うからには、当人は全て実現出来ている必要がある、よね。そうなの? そうじゃないなら、「魔法のツボに騙されたい」は図星だろう。(「甲子園に出るには」という本があったとして、「毎日のトレーニングの重要性しか書かれていない!」と書くようなもんだわ。)
「レジリエンス」に限らず、近年流行りの「マインドについての問題解決アプローチ」のベースになっているのは、実は東洋的な哲学・倫理観に極めて近いものです。唯一にして絶対的にそれらと異なるのは、(正しいかどうかは別問題として)それが「科学的であろうとする点」と、そしてもっと大事なのは「修得可能な技能である」として体系化しようとしていることです。東洋思想の西洋的な味付け、と思ったらいい。
なんでそう感じるようになったか、というのは、私の読書履歴に依存するので、誰もがそう感じるとも思えないけれど、私がそう感じるようになったのは、トム・デマルコの一連の書籍群における「日本企業賛美」(デマルコだったと思うんだけど確証なし)と、P・F・ドラッガーのプロフェッショナルの条件、それに最近流行の「デザイン思考」「グループジーニアス」の考え方の影響かな。
「デザイン思考」「グループジーニアス」のいずれも、根底をなすのは「極めて当たり前のこと」、特に日本人には馴染みの「道徳」ばかりなのよね。「皆で仲良く考えよう」「人が全てだ(「共感力」)」。ただし、心理学・脳科学(・統計学)の味付けでもって「ていをな」せば、それが「修得可能な技能となる」。魔法的要素は方法論には少しは現れるけれど、総じて言えば魔法はない。結局「鍛錬が必要」であることにはかわりはなく、「手っ取り早くする」魔法はそこにはない。
正しく優秀な本ほど「当たり前に思えること」ばかり書かれてる、と私は思う。事実そうでしょう? そして「当たり前のことしか書かれていない!」という評価ほど意味をなさないものもないと思う。なぜ、一流の人はハードワークでも心が疲れないのか? 実践版「レジリエンス・トレーニング」について言えば、私は「効果があって当たり前のこの考え方を身のあるものにするための近道となる考え方と実践方法」の「ヒント」が書かれている本、と読んだ。そう。私だって「当たり前のことが書かれている」と思っている。けどそこじゃないでしょ、受け取るのは。「当たり前のこれを身のあるものにする」のが大変なんじゃないか。
それともうひとつ、なぜ、一流の人はハードワークでも心が疲れないのか? 実践版「レジリエンス・トレーニング」のその書評で思ったのは、「レジリエンスは人の集まりに対して適用するために必要な教え」であることを忘れてるんじゃないのか、てこと。ワタシはこの本は「チームビルディング」のために読んだ。つまり、「個々に個性の異なる、人々」に適用するために読んだ。当然著者の狙いもそこにある。そもそも「知識」には人によるバラつきが多いわけである。「全員が貴方じゃない」。これを忘れてないか? ある特定の個人が「自分には当たり前のこと」と思うことは、チームビルディングのための考え方には邪魔である。皆が皆そうじゃないんだから。もしも貴方の「俺には当たり前のことだ」が本当のことならば、単に「そうか、他人はそうじゃないのね」と思えば良いだけのこと。実際それが真実だぞ。繰り返す。「皆がお前じゃない」。実際チームビルディングが難しいのは、そうだから、だろ?
あとね。私はまぁまぁの多読なので、一冊一冊のコストパフォーマンスは重視してないのね。こういう「ヒステリックな」評価をする人って、「たった一つのことであらゆることが解決出来るに違いないと思ってしまう」、ちょっと可哀相な人なんじゃないのかな、とも思う。一点突破主義? 何かに本気で取り組むときにさ、たった一つの何かで万事うまくいく、なんてこと、そうそうないんじゃないかね。何かに本気になるなら、それなりの投資は覚悟すべきです。何の投資もせずに成功しようなんか虫が良過ぎるし、そう思い続けるなら「あなたの言うその「詐欺」に、最も騙されやすい人へまっしぐら」だぞ、と言いたい。
書評で思い出した。「タレントやアーティストの評価」についての喧々諤々をネットでたま~に読むんだけど、これについても「効能・効果(適応)」を連想させるようなものを最近みちゃってね。
ワタシね、e-girls が、ぜんぜっんピンと来なくてさ(EXILEもだけど)。で、興味がないのだから、別に掘り下げる必要なんかないんだけど、ふと思い立ってちょっとググってみて、すぐに理解した。「小・中学生に大人気」。年齢を選ぶってことでしょ。売り手側がそれを狙ってるかどうかはわからないけれど、私のような年代が興味を示すチームではないのは確かなようだ。これはもう Perfume とははっきりと違う。
Perfume はいまでこそかなり「老若男女」に近付きつつあるけど、ブレイク前後あたりは「おっさんキラー」と言う評価はほとんど確定してて、「プロジェクトX世代」に受ける要素満載だったわけね。男女比についても同じ。Perfume はブレイク後どんどん女性ファン比率が上がっている。e-girls はどうやら女子ファンが多そうだ。そりゃぁ40代男、のワタシにヒットしようがない。
でさ。「アンチ」と呼ばれる人たちが、どんなグループにも、あるでしょう? Perfume アンチは、私には「こんなに流行りの Perfume のアンチのオレ、かっちょいい」と思ってるような雰囲気を感じてるけど、e-girls のアンチは、これとは別の意味で「イタい」ように思えた。つまり「ターゲットでない40歳男が中学生相手に喧嘩してる」ような、そんな空気を感じた。うぅ、キモい…。両者の私の感じ方の違いは、「根拠が理解出来るか出来ないかの差」です。アンチ Perfume の言い分は「えー? そこ?」ばかり。アンチ e-girls のそれは、「そうかもしらんけど、相手は子供だぜ?」。
なんでもいいんだけどさ、この手のアンチには「正義感」を強く感じるわけね。「貴方は騙されてる」てわけであろう? もっと違うことに人生費やした方が豊かになれるのに、と思うんだが、そうすることがストレス発散にでもなって、幸せになってるとでも言うのであろうか? 「公共の福祉」を乱すことが、数字で示せるなら、あるいは「貴方にしかわからない本当の害悪」があるのなら命かけてもらっても構わない。オウム真理教が真に害悪だなんて、皆「あそこまでとは思わなかった」んだから、根拠あるアンチは正しくアンチでいてください。でもそうじゃないなら、人生の浪費だと思うけどねぇ??
話戻します。
「上級者には必要のない詐欺まがいの」がどの書籍についた書評か伏せてるのは理由があって…。実は当該書籍に「絶賛騙されてみている中」だから、です。2週間ほどかかる内容。2週間ほど経ったら、記事にする予定です。乞うご期待。(結論が「騙されたぁ」になるのかそうでないのかは、初日の今日はまだ一切わからない。)